聖書の理想社会


自由主義と共産主義のいずれにすべきか。

徹底して自由にすると格差が生じて、有り余る富を持つ人と、食べられないで餓死する人が生まれる。

共産主義だと、全員が貧乏になる。頑張っても税金で取られて、働けるのに働かないで生活する人に回るのでやる気がなくなり、製品の品質も下がる。

聖書が共産主義を教えているという人がいるが違う。

共産主義は「強制的に」人から財産を奪って分け与えるが、聖書では国家による強制徴収は10%未満に限定されている。

聖書で教えられているのは、「金持ちはすすんで貧困者を助けること」である。

それが、永遠の報いになると記されている。


「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。(2コリント9・9)

聖書の理想社会とは、人体のような有機体である。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15・5)

社会の構成員が互いに同じ木として結び合わされている。

イエスが中心の幹である。

人間は枝である。

その枝には、イエスにつながる能力に応じて様々な実がなる。

多く実る人はイエスにしっかりとつながっており、少なく実る人はイエスに弱くつながっている。

「イエスにつながるかどうかは関係ない」というかもしれないが、神の法を破り、イエスに敵対するような人々は、幹から切り離された枝であって、じきに枯れる。

人を人と思わない中国のような国が繁栄するはずがないのである。

長期的に見て、繁栄するか繁栄しないかはイエスにどれだけしっかりと結びつくかにかかっている。

そして、イエスに結び付いた人は互いに同じからだなので、一つの枝が病気になれば、感染して自分もそれにかかるかもしれない。

互いに運命共同体なのである。

だから、聖書の理想社会では、有機体として、一人は全体のことを心配し、各人はそれぞれの構成員について配慮しなければならない。

新自由主義者の竹中みたいな人は、日本人の若者が非正規労働者になろうが、家庭を作れないほど貧乏になろうがどうでもいいのである。

この世は弱肉強食であると。

ついていけない奴は滅べと。

こういう冷酷な心理はどうして生まれるかというと、今世界政府を作ろうとしている人間たちは、各国の若者のことなどどうでもいいと考えているからである。

世界を国境のない単一体に変えようとしている。

通貨も統一しようと。

労働者の流れも自由化し、世界が単一の賃金体系になればいいと。

細胞壁のない人体が滅ぶのと同じように、国境がない世界は滅びる。

聖書的理想社会とは、国境を持ち、国単位でしっかりと運営する。

だから、国境警備をきちんとし、入国管理をしっかりやる。

家族の枠組みをしっかりと維持するためにポルノを禁止する。

このように、聖書の理想社会とは、イエスの有機体である。

(1)個人は能力と努力に応じて結果が異なる。

(2)個人と個人は共通の有機体の一部であるから互いに心配し合う。

(3)個人と個人を区別し、国家と国家を区別する。私有財産を尊重する。国家の強制を最小限にとどめる。

聖書から離れるならば、この理想社会からどんどんと離れ、汎神論者の世界政府が誕生し、世界は破滅する。

 

 

2015年2月5日



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