ディスペンセーショナリズムやフェデラル・ヴィジョン批判の理由



これは失礼になるゆえ、書かないほうがと思いましたが、でも大切なことゆえあえて。
富井先生はかつての教会で裁判にかけられ、先生からすると不当に排斥され、その理由をディスペンにすべてかぶせて、再建主義に転向された。しかし心の深いところに今でも深刻な傷を受けておられるように感じられます。先生はディスペンと対峙されているのではなく、ご自分の過去、あるいは自分自身であるように見えます。癒しは自分を傷つけた相手を赦すことから開始されます。聖霊の癒しのタッチを受けるならば、甘い愛に満たされ、真の天国の味わいを経験できるのです。
僭越ながら先生のために祈っております。

誤解が多すぎますね。

裁判にかけた側は、ディスペンセーショナリズムではなく、改革派神学を信じていました。

裁判の理由は、向こうから出したものではなく、私が退職を申し出てからです。

私の側に道徳的な問題は一切なかったので、長老や教会員は非常に驚きました。

理由は、もっぱら神学的な問題です。

そして、その神学的な問題といっても、その裁判まで、一回も道徳面はもとより教理に関しても忠告・叱責はなかった。

突然です。

その裁判を行った長老会に長老が誰も招かれていなかったことがすべてを物語っています。

長老なしの長老会が開かれ、出席していたのは、センター教会の牧師たちだけです。

ブランチの牧師すら呼ばれていなかった。

そして主任牧師は「ここでの決定は長老に電話で承認を取ります」と言った。

つまり、最初から追い出すために行われた。

この件について、私には一切道徳的・神学的な問題はないので、私には傷などありません。

精神的なダメージがなかったというと嘘になりますが、それがディスペンセーショナリズムを非難する理由ではありません。

ディスペンセーショナリズムは、教理的におかしい。

そして、それが教会をダメにしている。

ディスペンセーショナリズムの教会の牧師たちは何人も知っていますし、以前私もディスペンセーショナリズムだったので、個人的な恨みはまったくありません。

しいていえば、主任牧師や教会の牧師たちも、みなよい人で、個人的な恨みとか反感とかはありません。

主任牧師には、公私にわたって13年間お世話になったので、悪いことを言いたくないです。

私怨でやっていると思われるのは心外です。

三鷹の牧師やクリスチャンたちにもそういう感情はありません。

いいですか。

問題は、教理なのです。

ディスペンセーショナリズムやフェデラル・ヴィジョンは、ユダヤ教側が送り込んだ刺客によって作られた騙しなのです。

同じクリスチャンが、大きな騙しの中にいて、それを放置しておけないので批判している。

 

 

2015年11月18日



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