狭い門から入れ


ある教団のトップは、ブランチの教会の牧師を追い出して会堂を乗っ取った。

ある牧師は、自分の子供の問題を長老会で取り上げようとした長老を追い出した。

あるクリスチャンは、ブログ上に、別のクリスチャンの事実に反し、なおかつ、その人の名誉を傷つけるようなことを書いている。

彼らは救われるだろうか。

死後、天国に行ってイエスとともに永遠の祝福にあずかることができるだろうか。

ノーだ。


あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6・9-10)

無条件の救いは、間違いである。

「正しくない者…不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者」は、神の国を相続できない、つまり、契約から追い出され、永遠の刑罰にあう。

正しくなければ、クリスチャンとして救われることはない。

ディスペンセーショナリズムが教会にはびこってから、イエスを信じれば、行いとは無関係に救われるという考えが広まった。

ディスペンセーショナリズムは、律法の時代と恵みの時代を分ける。

そして、現在は、恵みの時代であって、律法を守るかどうかは関係ないとする。

クリスチャンは、この考えによって、無律法主義に陥った。

何をしても赦されると。

だから、今のクリスチャンで死後、自分が救いの中にいなかったことに愕然とする人は多いと思う。

そんなときに、叫んでも遅い。

神は「『正しくない者は神の国を相続できない』と聖書にちゃんと書いてあるではないか」と言われるだろう。

聖書に記された命令に意図的に違反するならば、絶対に救われない。

悔い改めの意思がない人は、革命家であるから救われない。

知識がある人は、それだけ要求が厳しくなる。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12・47-48)

神の御心を知りながら、そのために働かないクリスチャンなどありえない。

そういう人は、聖霊を受けていない。

聖霊を受けていれば、必ず神のために熱心に働くはずである。

自分のうちにおられる聖霊は、自分の心を動かし、いてもたってもいられなくするだろう。

聖霊を受けていながら、正しい聖書的な教えを聞いて、心が動かない人はいない。

正しい教えを聞いたら、聖霊は必ずその人に確信をお与えになる。

正しい教えを聞きながら、誤謬にとどまり、頑固に反対するのは、もはや聖霊が去ったとしか思えない。

「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」(ルカ13・24-30)

 

 

2012年11月3日



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