神に対して求めることが少ない人は得られるものも少ない



また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11・5-10)

クリスチャンに必要な性質は「しつこさ」である。

つまり「諦めない心」。

「友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」

体験的に、信仰生活が長くなると、神は「クリスチャンだからということで起きて何かを与えることは」されない。

もちろん我々が知らないところで神は様々なことを恵んでくださるのだが。

特別の恵みをいただくには、普通のことをやっていてはだめだ。

こちらが本気にならないと神も本気になってくださらない。

お百度参りのように、特別の努力をすると神は聞いてくださる。

その道で一流になっている人はほとんど全員努力家である。

最近、コンピュータに勝った棋士はシミュレーションソフトで1000回練習したそうである。

イチローがあれだけの成績を収めることができたのは、もちろん並外れた才能もあるが、自分を律し、努力したからである。

人間は、自分が蒔いた種を刈り取る。これが神の定められた法則である。

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。(2コリント9・6)

なんでも貴重なものは、何度もチャレンジし、何度も失敗し、経験を積み重ねることによってはじめて得られる。

神に対して求めることが少ない人は、得られるものも少ない。

 

 

2017年4月11日



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