御言葉に逆らうことは自滅を意味する
(1)
今日は、荒川土手を16000歩歩いた。
万歩計はOMRONのものがいい。
ポケットにどのような形で入れていても、正確に計測してくれる。
御名を唱えつつ、中国共産党の崩壊と中華人民共和国の滅亡を祈った。
御名を唱えつつ祈ると、不思議なことに、知らない人があいさつしたり、会釈してくれる。
とにかく、2時間、いろんな霊を縛りつける。
「サタンよ、お前は、自分たちが強いように見せかけているが、本当はすでに敗北している。私は知っている。だから、お前を縛る。イエスの御名によって縛る!」と祈る。
この世を支配しているかのように見せているサタンを追い出して、われわれが支配しなければならない。
イエス・キリストが復活し、昇天されてから、この世界はキリストの王国になった。
これが紀元70年に起きた。
だから、それ以降、世界はキリストの王国であって、サタンの国ではない。
では、どうしてサタンが至る所で活動しているのか。
祈らないからである。
われわれが、敵の陣地を取りにいかないからだ。
サタンを縛って、悪霊を全滅させて、彼らを地獄に放り込んで、そして、その土地を解放するのである。
彼らには居座る法的権威がないのだから。
(2)
何日か前に、スーパー銭湯に行った。
浴場に、不規則な発言と行動をする青年がいた。
保護者とともに来ているのだが、うろうろいろいろなところに行ったり来たりする。大きな声を不規則に上げる。
「ああ、これは悪霊だな」と思ったので、「この青年の中にいる悪霊よ、お前を縛る」と祈った。
何度も何度も祈っていると、その青年がぴたっと不規則な発言や行動をやめて、こちらをじっと見つめている。
もちろん、私は心の中で祈っているので、彼には聞こえないはずだ。
しかし、彼は私に何かを感じたようだ。
とにかく最後はおとなしくなって保護者といっしょに出て行った。
霊は人の中で騒ぐ。
彼のような人の中に入っている霊は、他人に危害を加えるような霊ではないが、しかし、その人の人格を占領している。
一生を無益にするために住み着いている悪霊である。
われわれは、こういった人々の人生を台無しにしている悪魔の働きを破壊するために召されている。
だから、執拗に執拗に祈って追い出すべきだ。
一人の人に何千もの霊が入っていることもある。
その場合、一つや二つ追い出しただけではだめだ。
イエスがガダラの狂人から無数の霊を出したように、一度に追い出す必要があるかもしれない。
われわれは霊力を磨いて、追い出す力をつけなければならない。
(3)
クリスチャンでも、隙を作ると、さっと入られる。
不安の霊、疑いの霊、恐れの霊…。
神学生のころ、北海道に帰っていた友人が東京に出てきた。
教職を取って先生になるのだと。それで大学で聴講しているという。
しかし、北海道では精神病院に入っていた。
毎朝私のアパートにやってきて、アドバイスを受けた。
私はとにかく「心が喜びに満ちるまで祈れ」といった。
そのとおりにすると、ものすごい効果が表れた。
「元気になったよ!」と喜んでいた。
しかし、私のちょっとした欠点を見つけて裁き出してから、祈らなくなった。
逆戻りである。
再び悪霊の餌食になった。
私の言うことも聞こうとしない。
教会の広間に一人でぽつんと座っている。
悪霊につかれている人の特徴として「イエス」という言葉を聞きたがらない。
イエスと言おうとすると「やめてください!」という。
いわゆる精神病というものの根源には、傲慢があるのではと思う。
聖書的なアドバイスを拒む傲慢さが、自滅を招く。
(4)
私は、聖書的なことがら以外を人に示すことはしない。
やっても無駄だ。
もし私に野心があって、人をコントロールしようとするならば「私の言うことに逆らうな」と言うだろう。
しかし、まったくそういう野心はない。
聖書が示していることをそのまま伝えるだけだ。
だから、私の発言に対して真っ向から反対することは危険である。
それは、聖書に逆らうことになる可能性が高いから。
もちろん、私は神でもなんでもないわけだから、間違いがある。
その場合には、逆らっても害はないだろうが、聖書的なことの場合、逆らうとろくなことにならない。
昔、HPで「よくキリスト教の神も、ユダヤ教の神も同じ神だという人がいるが、間違いだ。なぜならば、ユダヤ教の神は、キリストを神のひとり子として、唯一の救い主として示さないから」と言うとむきになって「いや、キリスト教の神とユダヤ教の神は同じ神です」という人がいた。
こういう反抗をすれば、自分に刀が振り下ろされることを覚悟しなければならない。
御言葉は神の「両刃の剣」である。
聖書において「イエス・キリスト以外に神に至る道はない」と宣言されているのだから、「イエス・キリストは道ではない」というユダヤ教の神は神ではなく、サタンである。
この明らかな真理を否定し、むきになって主張するならば、自分の頭上に両刃の剣が振り下ろされるだろう。
恐ろしいことだ。
神の言葉に逆らうことは死を意味する。
賢い人は、聖書的な教えを聞いたら、「はい。そのとおりです」と言う。
愚か者は、「いや、私はそう考えません」という。
そうして、永遠の地獄を選択する。
私は神を恐れるので、御言葉に逆らわない。
逆らってしまった場合は、悔い改めて「すみません。違反してしまいました」と告白する。
そして常に神に対して恭順の姿勢を取るようにしている。
「いや、いくら神さまがそういっても私はそうは考えない」と主張する異端者になって、永遠の地獄に落ちたくはない。
2013年4月28日
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