血は契約に属しているかどうかの試金石である


契約において「血」は、神の主権の象徴である。

第一条件「超越と内在」において、神が創造者であり、被造物に対して絶対的主権を持つと宣言される。

これが、創世記第一章から第三章である。

神は創造者であるがゆえに、人間に対して主権を行使される。

人間は、それゆえ神の副官として地上を統治しなければならない。

これが第二条件「上下関係(ヒエラルキー)」である。

人間社会のあらゆる要素が神を主権者として存在する副官としての人間を示している。

どの個人、どの組織も、神の主権を行使するために存在する。

われわれが行動するあらゆる場面において「それは主権者である神の御心なのか」が問題となる。

食は、それを通じて栄養を得るチャンスであると同時に楽しみでもある。

神は、動物のように生肉を食べるのではなく、調理して食べるように味覚を創造された。

動物は生肉でも喜んで食べるが、人間は受け入れられない。

味覚を通じて生きることを楽しみ、神に感謝するように創造されている。

われわれはあらゆるものを食べてよいのであるが、ただ一つ食べてはならないものがある。

「血」である。


それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。「あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。」
(レビ記17・21)

血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。
血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。(申命記12・24-25)

「注ぎ出せ」とあるので、ユダヤ人のコーシェルのように徹底して、一滴たりとも残さずに搾り出すまでする必要はないと思うが、血を飲んだり血のついたものを食べるべきではない。

血は命である。

ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。(申命記12・23)

命は、神にのみ属する。

人間であれ動物であれ、生殺与奪の権利は人間にはない。

われわれが刑罰として死刑を行い、食用に動物を殺すのは、神が命令もしくは許可されたからである。

血を含んだまま食べることは命という神にのみ属する事柄を侵し、それゆえ、契約の主従関係が崩れたことを意味する。

契約の主従関係が破壊された場合、それを悔い改めという修復行為によって補償しない限り、それは破壊されたままである。

その場合、われわれは人体内の癌細胞になることを意味する。

人体と調和し、人体全体を生かすために存在する正常な細胞ではなく、人体を破壊する細胞になった。

だから、処分されるのである。

クリスチャンとなっても、癌細胞になれば、処分されるしかない。

「血」は、契約の第一条件と第二条件を確認するための試金石である。

われわれは食事において契約に属していることを証明しなければならない。

 

 

2012年10月14日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net