教勢にこだわる人は騙されている
『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。(マタイ3・9)
よく「あなたのグループは何人ですか?」と聞く人がいるが、聞いて何を判断するのだろうか。
数が多ければ「すごい」のだろうか。
私は、ある教団や教会にどれだけ人が集まっていることにまったくいかなる価値も見いださない。
人生の中で成功し、何千億の資産を持つ人に憧れない。
問題は「神がともにおられるか」である。
その成功が悪魔によって与えられたのなら、いかなる意味もない。
悪魔はインスタントな成功を与える。
苦労なく、巨万の富を与える。
愚か者は、そのようなインスタントな成功を求め、成功を手に入れると傲慢になる。
イエスの当時、パリサイ人やサドカイ人は多数派であった。
イスラエルの宗教的権威であった。
本当のクリスチャンは、野にいた。
バプテスマのヨハネは、荒野で暮らし、毛皮を着て、イナゴと野蜜を食べていた。
イエスのもとにやってきたのは、宗教的権威のある人々ではなく、漁師や取税人、元遊女など無学な人々だった。
使徒の中でエリートだったのは、パウロだけだった。
そのパウロも自分の過去の栄光や実績を「ちりあくた」と見なした。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・(ピリピ3・8)
キリスト教は「無に等しい人々」から出発した。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(1コリント1・28)
神は、あえて「無に等しい人々」を選ばれた。
それは、立派な人々を通じてキリスト教が拡大しても栄光が現れないからである。
人々が「キリスト教が成功して世界的な宗教になったのは立派な人々がいたからだ」と考えるならば、神の栄光がかすんでしまう。
それゆえ、われわれがもし将来成功するとすれば、われわれはまずどん底でなければならない。
ある牧師から「君の考えを広めたいなら、アメリカの神学校を出ないとダメだよ」と言われた。
「アメリカの神学校を出たから信頼できる」と考えるような人が集まってもろくな集団にならない。
なぜならば「識別力がないから」。
識別力がない人は、どこまで行っても識別力がない。
「いつか本物を見分けるようになるだろう」などと期待しても無駄である。
ポスト・ミレがいいと判断できるのは「選び」なのである。
神が光をお与えにならない限り、ポスト・ミレが正しいと判断できない。
セオノミーが正しいと判断できるのは、神がそのように啓示されたからである。
識別力は生まれながらのものであり、永遠の昔に選ばれたから与えられるものであって、学識を積んだから与えられるようなものではない。
ミレニアムの記事を読んで、腹の底に落ちる人は、選ばれているから落ちるのである。
選ばれていなければ、頭の上を素通りする。
頭の中に少しだけ留まっても、すぐに次のものに飛びつく。
「これは正しい」「これは間違っている」という判断力は、生まれながらに与えられているセンスである。
そのセンスは、永遠の昔に神が与えようと定められたから与えられるのである。
みながイエスを捨てて去った後で、ペテロや弟子たちだけが残った。
なぜ残ることができたのか。
そのように選ばれていたからである。
さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16・13-17)
御父が示されたのでペテロはイエスを生ける神の御子キリストであるとわかった。
多くの人々がやってきて、去って行くのは、しかたがないのである。
なぜならば、御父から示されていないからである。
去って行く人をつなぎ止めるために教えを曲げるような人々は、偽預言者である。
「信条にこだわっていても数は増えない」と言って、歴史的に確立された教理を安易に捨てるような人は、自らが偽預言者か、偽預言者に騙されて永遠の命を失う人である。
もともとわれわれの仲間ではなかったのである。
だから、私は、数などどうでもいいと考える。
教えにこだわらない人は、「一杯の煮物と引き換えに長子の権利を失った」エサウである。
エサウは神の約束を軽んじ、ヤコブは重んじた。
同じアブラハムから生まれた人々が、時間が経つと「ふるいにかけられ」、本物だけが残る。
イシマエルは外され、イサクが残った。
イサクから生まれたエサウとヤコブの二人の子供のうち、ヤコブが残った。
エサウからはエドム人が生まれ、ヤコブからイスラエル人が生まれた。
約束はイスラエル人に伝えられ、ダビデが王となり、イスラエル国が成立した。このイスラエル国にイエスが生まれ、救いが達成された。
エドム人は偶像を信じ、彼らから救い主は生まれなかった。
偶像を信じる人々がどれだけ増えても何の意味があるのだろうか。
「正しい聖書的な教え」は種であって、その種が悪ければ、悪い作物が育ち、悪い実を結ぶ。
良い種は良い作物に育ち、良い実を結ぶ。
だから教えにこだわらず、数にこだわると、人生を無駄にすることになる。
教勢を誇り、正しい教理を保持する少数の人々を見下すような牧師は、イエスから「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」と言われているのである。
彼らはパリサイ人と同じように、数で釣ろうとするサタンに騙されており、間違った道に進んでいる。
2018年12月20日
ホーム
robcorp@millnm.net