日本精神の基礎は易占ではない


私は日本の歴史について慎重に考えてきました。それで、いろんな気づきから、大化の改新において歴史が改ざんされているということが分かったのですが、どこがどう改ざんされているのかまだはっきりとはしていません。

しかし、これだけはいえる。

日本の精神の基礎を、易占に求めることは絶対にできないということ。

日本や日本人は、そんな安っぽいものではない。韓国や中国とは違う何かがある。これは直感です。

おそらくそういう易占の類は、天皇やそれを支える人々の中に、ある時代に何か異質なものとして入った。

それは、大化の改新においてではないかもしれない。(しかし大化の改新は大きな変化があった。)

もし今のような外国に対する排斥のムードが高まっているときに、「ただ過去に帰れ」というだけならば、原日本の占いの文化に帰れということになるなるでしょう。そうすれば、今日本が真剣に取り組んでいる科学的研究は日本精神と異質なものとして捨てなければならないということになるし、そもそも、自分の過去を安っぽいものにしてしまうことになる。

それは、絶対におかしい。日本は世界に普遍的に通用する何か奥深いものがある。僕は主要な神社は全国津々浦々まわっています。そこで、中心的神社、伊勢神宮、伊雑宮、出雲大社、下鴨神社、諏訪大社に、ものすごい神神しいもの。何か非常に気高いもの。清新なものを感じた。

このような精神を基礎として持っている日本そして日本人とは何か。

キリスト教国である欧米は、それと比較すると獣に思えるほどの高尚な文明。これは科学技術と相反するようなものであるはずがない。

それで、日本の歴史は、本質においてキリスト教ではないかと考えるようになった。

キリスト教は、日本の原宗教であったのだが、ある時期に禁令になったのかなにか、地下にもぐった。

しかし、皇室の儀式の中にその名残がある。なぜならば、皇室の儀式に秦氏の影響が強いからです。秦氏は、もとをたどればシルクロードのキリスト教国「弓月国」からきている。

たとえば、大嘗祭は、キリスト教の立場から見ればすんなりと解釈できます。
湯帷子を着て水に入り、新しいそれを着てでてくる。→バプテスマ
天照大神と食事をする→聖餐式
斜めの畳に寝る→献身と復活

原始の神道とは、キリスト教であったと考えるべきだと思います。

それも、欧米のキリスト教ではなく、ユダヤ系のキリスト教が入っている。つまり、初代教会の人々が直接に日本に入った。

そういう証拠なり示しなりを僕の人生の中で、自分が離れようとしても離れられないくらいに執拗に見せ付けられてきた。

日本という国名、日の丸という旗。みんなキリストを表す。これも昔から気づいていたが、飛鳥氏に八咫烏が同じことを言った。こういうびっくりするような偶然の一致が多いのです。

 

 

2010年10月11日

 

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