唐という国は、遊牧騎馬民族鮮卑が作った国である。
騎馬民族は、国境という概念が薄い。
むしろないほうがいいと考える。
馬に乗って自由に動き回ることを望むからである。
元と同じように、唐も、国境とは民族に関係なく広く文化を受け入れる傾向があった。
そのため、唐の首都長安は、外国人がたくさんいて、外国の宗教、思想、文物が集まった。
大秦景教流行碑が示すように、当時の長安ではキリスト教が盛んだった。
日本は遣唐使を通じて、国際都市長安から他の文物だけではなく、景教も持ち帰ったのだろう
遣唐使に同行した空海も、景教を持ち帰ったのだ。
空海が仏教に与えた巨大な影響を考えると、日本仏教にキリスト教の影響が強く残っているとしてもおかしくはない。
われわれの日本仏教に対する見方はこれで完全に変わる。
https://www.youtube.com/watch?v=fsNauuJvBjE
このビデオでは、真言宗の阿闍梨小林宗峰氏がカバリストであるスティーブン・鷲峰・コーミー氏と対談を行っている。
その中で小林氏は、
密教が…カバラに非常に近いものであると感じている
と言われた。
このビデオは時間があるときに詳しく見なければならないが、空海が密教という形で持ち込んだ教えは、実はユダヤ教のカバラの影響を強く受けていたことがわかる。
空海が行った様々な業に旧約聖書の象徴表現が見えることは、これで説明できる。
四国全体を八十八か所で封印し、剣山を至聖所化したのもカバラのシステムを取り入れたからであろう。
そして、恵果が「密教の本場は日本であり、聖徳太子がそれを残した」といったということは、実は、こういったカバラのシステムは空海が持ち込む以前から日本にあったということなのだ。
もちろん私はカバラ信者ではないし、それに悪魔的な要素があることを知っている。
しかし、カバラには、旧約聖書に記された神の契約的な象徴の体系が濃厚に反映されているのも事実である。
カバラは旧約聖書と無関係に成立したものではなく、実は、旧約聖書の世界観のエッセンスを理解した人々が作りだして、それがいつか悪魔によって利用され、間違った形で残ったのではないかと考えている。
であるから、われわれは、カバラについては、両方の観点で見なければならない。
一つは、旧約聖書の世界観と象徴表現が含まれているということ。
もう一つは、それが悪魔によって利用され、異教化(神秘主義化)したこと。
日本に、空海が持ち込む以前にあったオリジナルの密教は、たとえば、神社の構造に現れている。
ボアズとヤキンを示す鳥居。
幕屋の庭を示す境内。
聖所を示す拝殿。
至聖所を示す本殿。
こういった類似性は、おそらく秦氏が持ちこんだものであろう。
いや、むしろ、それ以前に、旧約時代の秦氏である徐福(ヨセフ)が持ち込んだものではないか。
さらに、それ以前に、日本に入った12部族がすでにこういったカバラの象徴を導入し、もっとも古い神道を形成していたのかもしれない。
恵果は、日本に密教、すなわち、カバラの本家本元の使い手が古くからいたという事実を知っていたのかもしれない。
たとえば、神道の一番初期の形態では、神社のご神体は自然の山であった。
山は、ピラミッドであり、ピラミッドは、エデンの園から見えるエデン山の象徴である。
イムホテプなるヨセフは、ピラミッドをもっとも元初的な形態の神殿と考えていたのだろう。
社(やしろ)とは、屋代であり、それは、山の代わりとなる屋である。
つまり、社とは、自然の山を表現したものである。
だから、拝殿と本殿は、山なのであり、それを高低差で表現している。
神社に行けば、拝殿は境内よりも高いところにあり、本殿は階段もしくはスロープでそれより一段高いところあることがわかる。
日本に入ったユダヤ人たちは、オリジナルのカバラの知識を持っていて、それを日本において宗教施設や様々な場所において表現したのだろう。
たとえば、富士山を背景として並ぶ夫婦岩をしめ縄で結ぶことにより、ボアズとヤキンと至聖所を表現したのだろう。
空海は、中国で密教を学ぶうちに、実は、すでに日本にはそのオリジナルがあると気付いた。
同じように気づいていた恵果が、それゆえに帰国を勧めたのだろう。
西方に向かったキリスト教(ヤペテ系)では消えてしまったカバラの象徴学が、東方に向かったキリスト教(セム系)である景教のうちにあった。
それが中国に入ったのではあるが、実は、本家本元の一番中心的なグループはすでに紀元前に日本に入っていて、それを日本の土地において具体的に発展させていた。
日本は、聖書の中心的な場所、エデンの園の象徴を具体的に表現するためにユダヤ人が選んでいた場所ではなかったのか。