本当の日本の姿を知ろう


ユーチューブで、反捕鯨の白人どもと議論して強く感じるのは、法の無視。そして、最後には「黄色人種のくせに生意気だ」という人種差別である。

このようなむちゃくちゃな理屈が通用するのも、彼らが軍事力でアジア人より勝っているからで、他には何も理由はない。

いまやキリスト教すらも捨ててしまった。キリスト教こそが、欧米に今の富と力を与えた最大の要素であるにもかかわらず。

だから、ゲイリー・ノースが言うように、「異教に走る文化は最後には自滅する」のだ。

私は日本人が好きだし、日本という国が大好きだ。

この国を誇りに思う。だから、本当に国を守るという気持ちから、日本人が彼らの論理にならって、キリスト教批判に走ることを残念に思う。

欧米人がキリスト教を捨てて滅亡の道を転がり落ちているわけだから、我々はその逆を行こうではないか。

一緒になって「多神教のほうがよかった」だの、キリスト教でも「アルミニウス主義のほうが寛容だ」の、「リベラルがいい」だの、「バルトがいい」だの、もう止めよう。

これらは、信じても、国を弱体化させるだけだ。

私は、日本人にこう考えてほしいと思っている。


日本こそ、本物のキリスト教国である。こちらが元祖である。

「え〜!」とあきれるかもしれないが、実際そうなのだ。

「じゃあ、なぜこれまで日本は聖書やキリスト教文物と無縁だったのか」と問うかもしれない。

「ブラックホール」なのだ。

この宇宙のすべてが陽であるならば、陰の場所がある。

それでプラスマイナスで調和が取れる。

神の世界とはこのようにしてできている。

日本は、世界に対して陰だった。世界が陽としてあった時代に隠れていた。

そして、いまや世界史に躍り出るようになり、世界を驚かせてきた。

ユーチューブに小林香織と矢野沙織という2人の若い女性サクソフォニストがいる。きわめて演奏技術とジャズにフィーリングにあふれた優秀なミュージシャンだ。

この2人を見て、欧米人は「日本は世界の他のいかなる地域にないものをすべて持っている」と表現する。

日本文化は他のいかなる文化とも異なっている。ただ異なっているだけではなく、驚嘆すべきものを提供するレベルにある。

このような状況がなぜ生じたのか。

それは、神がそのように日本人を造られたからだ。

全世界に対してバランスを取るために造られた民族。

それは、ユダヤ人と平行している。

我々は、単純に現象を見て「ユダヤ人はもうだめだ。キリストを捨てて滅んでしまった」と考えるかもしれない。

違う。神の経綸は、「多数を救うために、一人を犠牲にする」という方法である。

イエス・キリストは、この本体である。

イエス・キリストが陰となって、陽である世界が救われた。

ユダヤ人と日本人は同じように陰となって、世界が救われるために隠された。

韓国や中国の文化が日本と近いかというとそう思わない。

韓国人の好みは、欧米とくにアメリカ的である。

派手なものが好きだ。背が高い、金を持っている、学歴がある、有名である、こういったものが大好きで、クリスチャンまでもがそういうものを求める。

「牧師になると、映画女優と結婚できる」みたいなことが自慢になる。

だから、私は韓国の文化を「リトルアメリカ」と考えている。

しかし、日本人は、ハリウッドの赤い絨毯を歩く人間を見て、どこか胡散臭さを感じている。

「こんなところに真実はない」と。

だから、今のアメリカや韓国から輸入した「陽的なキリスト教」ではだめなのだ。

陰と陽のバランスを尊ぶ日本人の国民性を満足させることはできない。

教会成長学やらキャンパスクルセードやチョー・ヨンギ流の伝道方法を見聞きして「こんなの日本じゃ通用しないよ」と感じている人は多いはずだ。

「浅い」と感じているはずだ。

そうだ。

こんな子供だましは日本人には通用しない。

我々は、もっと深いものを求めなければならない。

実際、日本についていろんなものを見ると、古代から、日本には陰陽でバランスを取る発想があったことが分かる。

八咫烏によると、伊勢神宮の中心の中心は、三位一神教である。それが、「陽」であり「多」である全国の無数の神社に対して「陰」と「一」を形成しているという。

籠神社の宮司も物部氏の神とはユダヤの神であり一人の神であると言う(諸事情により公言されなくなられたが)。

聖書では、時代もこの陰陽で成立しているという。

ユダヤ人が救われた時代に異邦人は救いから漏れていた。異邦人が救われる時代にユダヤ人は救いから漏れてきた。

一と多、陰と陽。

このバランスで時代も成立している。

空間的にも時間的にも、この世界は、一と多、陰と陽の調和によって成立しており、神は順番に恵みを賜ることによって、両者を最後には合体させて救いを完成される。

日本の古代からの思想は、この思想に貫かれており、「日本は多神教の国だ」などと述べる知識人たちは、この奥義が理解できていないのである。

日本人が自分のことを多神教徒と理解することはいかなる解決にもならない。

多神教は日本の表面であって、裏面があるのだ。

これまでは時代的にその表面に多神教があったが、裏面の時代がやってくれば、伊勢神宮や籠神社、つまり、物部氏の本領が発揮される。

つまり、三位一神教の時代だ。

出雲大社や伊勢神宮など、いたるところにある「三本が一体に束ねられている柱」は、この三位一神教を示している(柱は神を表す)。

古事記の一体となった造化三神に現れている「三位一体神」の教え。

この聖書の神の教えが、表面に出てくる時代がやってくる。

我々は、単純に多神教に戻ればよいなどと考えてはならない。

「多神教の時代に日本は豊かだった。キリスト教が入ってからおかしくなった」みたいな復古主義には解決はない。

よく古典を調べ、歴史を調べよう。

そして、日本という国が世界に対してどのような意義を持つ国であるかを悟ろう。

そのときこそ、日本がはじめて世界のリーダーになれるときだ。

 

 

2010年9月21日

 

 ホーム

ツイート

 





millnm@path.ne.jp