一致して祈らないと勝てない
預言というものは、おふでさきのようなものではない。つまり、恍惚状態になってやるものでも、自分の指先が勝手に動いたりするものでもない。
神が自分に語るように促されるものであり、それは自分の人格を通じて行われる。
そのため、極めて理性的なものである。
だからといって、預言者が自分の欲望にまかせて言うべきものでもない。
自分が考えているものや、感情の発露、嫌味、あてつけなどがもしあるならば、それは、預言者自身が自分の領分を超えて語ったことになり、預言者に裁きが下る。
だから牧師の話に自分にあてつけのように思われる場合があっても、自分のことを指して何らかの嫌味を言おうとしていると考えてはならない。
もしそういう牧師がいたならば、その牧師は早晩裁かれる。
講壇からのメッセージを私物化したからだ。
あくまでも真理だけを語るべきだ。
真理とは聖書的ということである。
聖書に基づかない教えを唱える牧師は裁かれる。
それから、クリスチャンの間では、何らかの感情的な行き違いとかがあると交わりが破壊されるので、よっぽどのことがない限り、人を敵視してはならない。
嫌味に思うようなことを言う人がいても、それを一回二回で判断するのではなく、何度も真意を確認しなければならない。
それがなければ、すぐに分裂が起きる。
分裂はサタンが一番望んでいることであるから、われわれはそれを回避すべきだ。
御霊による一致を第一とし、団結して祈らなければ、サタンの王国を破壊することは絶対に不可能。
もちろん、一人の祈りでも十分に破壊力はあるが、神は共同体としてのクリスチャンの群れの一致を重視しておられる。
私の場合、人に対して悪意や軽蔑を持つくらいなら、この活動を止める。
それから、論敵には容赦ない攻撃を加える。
なぜならば、真理の敵に妥協することは、神の国の死を意味するから。
普通の牧師や伝道師は「和を尊ぶ」ところを、私は挑戦する。
妥協によって現在のキリスト教界の破壊が起きたことを反省する人ならば理解してくれるだろう。
2014年3月31日
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