1.
ソ連時代の共産主義者ですら、最後はキリスト教式で葬式を上げることを願う人がいたという。
共産主義は、人間の実存的問題を解決できなかったのである。
元気が有り余っている若者のころには、粋がって共産主義運動に参加したが、いざ死期が近づくと、唯物論では解決できないことに気づく。
無神論を唱え「神に頼る人間は弱い」とかいいながら、老年になっていざ足腰立たなくなって衰弱が著しくなると、自分の無力さに気づく。
自分の人生はこれでよかったのか、と疑問を感じるようになる。
最後にイエスを信じて神に立ち返ればいいのである。
それまでの人生はすべて利益に変わる。
遅すぎることはない。
しかし、人生のほとんどを反キリストのために活動してきたのは残念だ。
2.
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者の書12・1)
若い時にクリスチャンになった人は幸いだ。
残りの人生を有意義なことのために使えるから。
有意義なこととは、神の国である。
世界は神の国を拡大する舞台として創造された。
われわれは、神の御心が地上で行われるために創造された。
神が喜ばれること、神が幸せになるために人生を与えられた。
自分の喜びや幸せを犠牲にして神の栄光が現れるために生きている。
そして、それこそが本当の喜びであり幸せなのだ。
3.
自分の喜びや幸せを求めても、青い鳥である。
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14・12)
神の幸せを第一に求めない人の道の終点は、死である。
「どうやったら神にもっとも喜ばれるだろうか」といつも考えていない人の人生は、死で終わる。
自分を中心に世界を回しているので、独り相撲の人生である。
快楽と満足を求めて懸命に努力するが、だいたいの人はそれを達成できない。
幸い、才能とチャンスに恵まれ、達成したとしても「それで?」となる。
事業が成功し、巨万の富を稼いだとしても「それが何?」となる。
自分が究極の目的であれば、人生はむなしい。
なぜならば、自分はそのようなものとしてできていないから。
究極の目的として自分の幸福を置いても幸せは得られないように、自分もこの世界もできている。
究極の目的を神の幸せに置いたときに、はじめて人間は幸せになり、世界も幸せになるようにはじめから造られている。
4.
私がなぜ、聖書が教える世界の構造についてこだわるかというと、聖書の示す世界観を理解するためである。
すでに示したように、世界は、
山頂に臨在される神→中腹にあるエデンの園→平野に広がる世界
という3層構造になっている。
神殿や幕屋はこの構造になっている。
山頂を象徴する至聖所→中腹を象徴する聖所→平野を象徴する庭
人間は、山頂におられる神から流れ出る祝福の水を平野部に流すために創造され、エデンの園に置かれた。
われわれは祝福の仲介者として存在する。
われわれは超越者ではないから祝福を作り出すことはできない。
われわれは祝福を世界にいきわたらせるために存在する。
これが人生の意味である。
アダムはこの「神の祝福の仲介者」としての使命において失敗した。
サタンを山頂に据え、そこから流れる毒水を地上に流し始めた。
イエス・キリストが第2のアダムとしてこの使命を達成された。
イエス・キリストを信じる人々は、生まれ変わり、元初のアダムの使命を実行する者と変えられた。
われわれの体には、聖霊がお住いになり、神殿となった。
われわれのうちにおられる聖霊から祝福の水が出て、われわれの体を通して、周囲の人々や世界を潤す。
若い時にこの知識を身に着けることができた人は幸いである。
この地上生活を有意義に過ごすことができるからである。