「地を従えよ」の命令はキリストにおいて成就した
(1)
律法主義と神法主義は違う。
律法主義とは、パリサイ人たちが信じていた異端の教えである。
つまり、「律法を守ることによって救われる」とする行為義認の教え。
神法主義では、「律法は救われるための手段ではなく、聖化への道案内をしてくれる手段である」と考える。
われわれは何かの道において上達したい場合、マニュアル本を読んだり、教室に通ったり、上達した人から助言を受ける。
律法は、神の御心であり、この地上を支配し、神の国を前進させるためのマニュアルである。
それによって救われるためには与えられていない。
それはイスラエルにおいても同様だった。
イスラエルに渡された律法の二枚の板は、契約の箱の中に収められていた。
律法の二枚の板は、そのままむき出しの状態で渡されると人間は死ぬ。
律法の要求は、絶対だからだ。
嘘をついた瞬間に絶命する。
イエス・キリストは、律法をすべて成就し、人間の身代わりに律法の違反の責めを負うために十字架で死なれた。
これによって律法の要求はすべて満たされたので、もはや、われわれが律法を守る必要はなくなった。
すべて、イエス・キリストと契約を結び、イエス・キリストの御体である教会の一員となることによって、われわれはすべてキリスト族になる。
キリスト族になれば、われわれは、キリストと同じ功徳を得る。
つまり、われわれも律法をすべて守り、律法の責めを十字架上で負ったとみなされる。
それゆえ、契約の箱は、イエス・キリストを象徴している。
原子炉容器が燃料棒の猛烈な放射能を防いでくれるのと同じように、契約の箱も、律法の苛烈な要求を防いでくれる。
アダムはもともと自力で律法を守る責務を負っていた。
つまり、むき出しの律法の二枚の板を渡された。
アダムは堕落前は完璧な被造物として作られたので罪を犯さず、それゆえ律法の要求によって死ぬことはなかった。
しかし、エバに続いて命令に逆らったために、永遠の死の刑罰を受けた。
それ以来、律法の二枚の板は、アダムを殺す理由となった。
アダムから生まれる人類は、生まれながらにして契約違反者である。
なぜならば、アダムと契約的に一体だからだ。
アダム族のままであれば、人類は、アダムと一緒に永遠の刑罰を受ける(アダムはその後悔い改めてキリスト族になったので救われたが)。
契約を切り替える必要がある。
キリスト族になることだ。
そうすれば、律法の二枚の板は契約の箱の中に入れられ無害化される。
契約の箱に入った律法は、無害であるだけではなく、神の御心を示すロードマップ、マニュアルになった。
これを律法の第3効用という。
すべて行為義認を説く宗教は、律法の二枚の板をむき出しで提供する異端である。
難行苦行をしても、律法の要求にこたえる力は人間にはない。
救いはまったくない。
ただ信仰義認を説く聖書的キリスト教だけが、律法を無害化かつ有益化する。
(2)
キリストは、来臨の際に、契約をすべて成就された。
だから、アダムに与えられた命令「地を従えよ」も成就された。
キリストは、「私は世を征服した」と宣言された。
「世に勝った」(ヨハネ16・33)と訳されている原語は、「征服する」である。
しかも、完了時制が用いられているので現状の「征服」の状態が強調されている。
また、キリストは「私は天においても地においても一切の権威が与えられた」と宣言された。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。…」(マタイ28・18)
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。…(マタイ28・19-20)
2013年6月3日
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