聖書は前提であり疑いから出発することは罪である3


「いやあ、そんなことを言ったら、ノンクリスチャンは納得しないでしょう。彼らは、聖書が神の言葉であることを証明することを望んでいるでしょう。」

そんなことはない。

なぜならば、ノンクリスチャンには、神が直接語りかけておられるからだ。


なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。(ローマ1・19)

「神が明らかにされた」のである。

神が明らかにされた以上、「わかりません」とは言えない。

ノンクリスチャンは、神からはっきりと神について知り得ることを直接教えられている。

だから、彼らが「神が存在するか、神の言葉が正しいか知りません」というときに、嘘をついているのだ。

ノンクリスチャンは、神の明確な自己紹介を、押し殺して、なかったことにしようと不断に努力している人々である。

彼らは、万事承知の上なのだ。

苦しいときに、神に助けを求めたことが必ずある。

自分が何か後ろめたいことをしたときに、神の目を感じたことがある。

私は、眠っていて夢の中で大きな声を聴いたことが何度かある。

飛び起きて、「今のは何だろう」と驚く。

こんな経験を誰でも何度かあるはずだ。

神は、クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、ご自身をはっきりと啓示しておられるのだから、われわれは、「中立の土俵」に入って神をジャッジする必要はないのだ。

被造物は、ジャッジされることしかできない。

創造主は、ジャッジすることしかなさらない。

この前提を崩すときに、われわれの信仰は崩れる。

そして悪魔の餌食になる。

 

 

2012年8月10日





 

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