1.
怖いくらいに祈りが聞かれている。
失踪少女、舛添、中国、韓国、・・・
日本のポルノ業界の壊滅を祈ってきたが、大打撃を与えられるかもしれない。
2.
人間は、温度に関して、宇宙の中のごく狭い範囲の中でしか生きられない。
大気の温度がマイナス100度、プラス60度で生きられるだろうか。
ちょっと地球の軌道が前後にぶれるだけで、人類は死滅する。
人間存在そのものが、奇跡の上に成り立っている。
われわれが今生きていられるのは、神の恩恵による。
神の恵みなしでは、一瞬も生きられない。
これは霊的なことについてもいえる。
われわれの一つ一つの行動が、神の裁きの対象になり、その都度裁判が開かれるならば、即時に地獄行きである。
われわれが生きていられるのは「イエス・キリストの功徳」による。
つまり、律法を完全に守ってくださった「イエス・キリストの行い」があるからこそ、われわれは神に裁かれずに生きている。
もし、生存の基盤が「自分の行為」にあるならば、ちょっとの違反があっても、即時に地獄に送られる。
もし神が「あっ、今嘘をついた。地獄へ!」というようなお方であれば、われわれは一瞬でも生きられない。
神は、われわれの行いを見るのではなく、「イエス・キリストの行い」を見てくださる。
われわれは、信仰によってイエス・キリストにつながれており、イエス・キリストと契約的に合一している教会(エクレシア)のメンバーなので、イエス・キリストと同じ「完全無欠の存在」と認識していただける。
そのため、行為義認の教えは、ことごとく異端であり、危険思想である。
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。
割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。
律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(ガラテヤ5・1-4)
「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。」
割礼を受ける人々とは、ここでは「律法を守ることによって救われる」と信じる人々を意味する。
「律法を守ることによって救われる」と信じる教えを行為義認教という。
部分的にでも行為義認を教えるならば、信仰義認の教えから完全に離れたのである。
なぜならば、信仰義認は一つの完璧な体系であり、例外はまったくないから。
つまり、信仰義認は「われわれは、イエス・キリストの完全無欠の行為に『のみ』依存し、われわれ自身の行為にはまったく依存しません」と告白する。
それゆえ、「信仰プラス行為」を根拠とする人は「律法の全体を行なう義務があ」る。
ちょっとでも「行いによる救い」の要素を取り入れるならば、その人はわれわれに「全部守れ」と言っているのである。
3.
主イエス・キリストを着なさい。(ローマ13・14)
イエス・キリストは、衣服である。
われわれは、イエス・キリストという衣服に完全に全身を覆われるべきである。
神がわれわれの生身の体をご覧にならないためである。
われわれの生身の体のどの部分であっても、堕落しており、醜い。
神に受け入れられるためには、全身が完璧でなければならない。
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペ5・27)
神への動物犠牲において、動物には傷やしみがあってはならなかった。
もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。(レビ記3・1)
神が受け入れられるのは、完全無欠な者だけである。
人間の常識や感覚に頼ると誤解する。
「神様は寛容だから、ちょっとぐらい欠点があっても受け入れてくださる」と言う人は聖書の神を誤解している。
神は絶対者であり、神の法に違反するあらゆる者を裁かざるをえない。
もし「それくらいいいよ。」というような神であれば、自らの制定された法を自らが破ることになる。
神の法は絶対であり、それに対する一つの違反でも裁きの対象になる。
そのため、神は欠点のある人間を受け入れるために、身代わりに完全無欠の御子を十字架につけて裁いてくださった。
イエス・キリストにおいて、神の義の要求は満たされた。
それゆえ、われわれは、イエス・キリストと一体化しなければならない。
イエス・キリストを信じることにより、われわれは「キリスト族」になる。
われわれは生まれたときは「アダム族」であったが、信仰により「キリスト族」になる。
アダム族に属する人々は、アダムにおいて失敗したので、契約違反者とみなされる。
キリスト族に属するならば、キリストが成功されたので、契約遵守者とみなされる。
この中間はない。
人間はみな、アダム族かキリスト族のいずれかに属している。
自分の行為に頼る人は、アダム族である。
キリストの行為に頼る人は、キリスト族である。
キリストの行為に自分の行為をプラスする人は、アダム族である。
それゆえ、契約違反者として地獄に行く。
4.
「信仰プラス礼典による救い」を唱えるフェデラル・ヴィジョンは、昔の異端が異なる衣服を着てでてきたものでしかない。
教会に密かに侵入した悪魔のささやきである。
われわれは「信仰のみによる救い」を唱え、「われわれが救われるのは自分が正しいからではなく、もっぱらイエス・キリストが正しいから」と信じなければならない。
われわれの救いの唯一の土台は「イエス・キリストの行為」である。