偶像礼拝と殺人と不倫は、聖書における3大犯罪である。
殺人と不倫の違いは、「容赦の余地があるかないか」である。
前者は「容赦されない」が、後者は「容赦の余地がある」。
殺人者は祭壇の角につかまっていても、そこから引きずり出して処刑された。
しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。(出エジプト記21・14)
祭壇の四隅についていた角につかまる行為は「贖いの主張」である。
犠牲の動物(キリストを象徴)の代償的な死によって赦しを乞う行為である。
新約時代においては、人は、キリストを通じて罪の赦しを祈ることによってこのことを行う。
計画的な殺人者は、このような贖いを受けられない。
つまり、容赦の余地がない。
しかし、不倫については、容赦される可能性がある。
マリアは、ヨセフと結婚関係にあったが同居していなかった。
そのとき、聖霊によってイエスを胎内に宿した。
ヨセフは悩んだ末に、長老に訴えることなく、内密に離縁しようとした。
聖書はここで「ヨセフは正しい人であっ」たと記している。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(マタイ1・19)
つまり、「内密な離縁」は、律法に則った姦淫の処理の方法だったということである。
被害者である配偶者が望めば、無罪にできたのである。
このように、聖書における刑罰は、被害者が決定できる。
「目には目」の原則は、「償いは、被害と同等を上限とせよ」という意味である。
目をやられたら文字通り、被害者は相手の目を潰すことができる。
目を潰すよりも賠償金を受け取るほうがよいと思うならば、そのようにできた。
賠償金の上限は、目の値である。
不倫とは異なり、殺人には賠償金はない。
あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。(民数記35・31)
聖書的な社会において、故意の殺人者は「例外なく」処刑される。