人生を最高に送った人
再建主義神学は、2000年の教会史において画期的なものであり、キリスト教が世界観としてはじめてまとまった姿を現したと見てよい。
もちろん再建主義の中に新しい教えというものはないのだが、それまでバラバラに唱えられていたものを一つの体系にまとめたという意味で非常に有意義である。
有意義であると同時にきわめて強力である。
なぜならば、あいまいな土台には立っていないからである。
われわれは、聖書だけを土台としている。
聖書という神の御言葉を土台としているから、ぐらつかない。
千年王国説に関しては、これまで教会の理解はあいまいであった。カルヴァン派でもあいまいだった。
カルヴァン派の中では、前千年王国説も後千年王国説も無千年王国論者でもいい、と言う人々がほとんどだ。
しかし、千年王国説は、歴史をどう解釈するか、そのフレームワークを与えるのできわめて重要なのだ。
「この地上においてクリスチャンは悪魔に勝利できるのか」「今の時代において御国は発展し、クリスチャンが世界を制覇するのか」という問題に対してそれぞれ独自の答えを持っているので重要なのだ。
ノンクリスチャンの世界観は、それを築き上げた瞬間に崩壊している。
デカルトはジョン・ロックによって徹底して潰された。
カントが立てた理屈は、カント自身が矛盾を認めている。
「われわれは世界を創造したものではないが、世界をわれわれの好き勝手に解釈してもいい」と開きなおる教えである。
それに対して、われわれは首尾一貫している。
「世界は神に創造された。だから、世界を神の啓示にしたがって解釈しなければならない」と。
リベラル派は、カントに根拠を持っているので、首尾一貫していない。
「聖書啓示には誤りがあるので、人間の考えが優先してもいい。」
聖書啓示が権威ではないので、結局リベラルは、ノンクリスチャンの教えになるから、「われわれは世界の創造者ではないが、世界を勝手に解釈してもいい」と考える。
バルトは、一見するとリベラルを批判し、聖書啓示に戻るそぶりを見せつつも、結局人間理性を優先させるから、同じく「われわれは世界の創造者ではないが、世界を勝手に解釈してもいい」と考える。
福音派などファンダメンタリズムは、聖書啓示を権威とするように見えて、実際のところは、進化論を受け入れたり、世俗学問を優先したり、ディスペンセーショナリズムのように聖書啓示の厳密な権威化に失敗しているから、次第にバルト→リベラル→ノンクリスチャンの方向に堕落しつつある。
今や世界のキリスト教は、巨大な地滑りを起こしており、総崩れの様相を呈している。
残った人々は、ほとんどいない。
みんな消えてしまった。
同性愛者やオネエの牧師、輪廻転生を信じる牧師、クリスチャン。
めちゃくちゃである。
「聖書啓示を学問に優先させる」という一点において失敗したら、すべて失敗する。
どんなに努力しても、そういうことを教える人の人生は失敗である。
聖書を神の言葉として至高の権威として敬い、それに対して一切文句を言わない覚悟があるかどうか。
もしなければ、私は瞬時にクリスチャンとしての交わりを断つ。
聖書では「一二度戒めて放置せよ」と書いてある。
20世紀の後半に歴史上かつてない成熟した世界観として確立された再建主義神学を学び、それを広める活動に参加する人こそ、人生を最高に送った人である。
2012年10月25日
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