フロイトやユングなど心理学者の学説を学ぶときまって「何をバカなことをだらだらと言っているのか!」と呆れて放置したくなる。
心理学だけではなく、大学で授業を出ていてためになったことはほとんどない。
語学以外の授業はことごとく「空しい」と感じた。
例外的に哲学の教授は実力があって興味深かかった。
それ以外については、「命がない」「空しい」「知って何になる?」と感じた。
聖書に基づく知識でなければ、単なる人間の見解だ。
しかも「神に敵対的な人間の」。
とくに心理学は神学の代用品として作られた学問である。
世俗化した西洋において、心理学は、人間の主要な関心として神学の代役を務めるようになった。人々は、現代の不安に対する解答を見出そうとして内面を見ている。
(Douglas R. Groothuis, Unmasking the New Age, IVP, 1991, p.71.)
真の神学には、確実な解答があるが、心理学にはない。
だから、際限のない空虚と不安がやってくる。
心理学の授業では講師が「〇〇はこう言っていますが、確立された議論ではありません」と何度も何度も言った。
学会の中であまりにも定説がなさすぎる。
フロイトは人気があったが、多くの現代の心理学者や批評家たちが、フロイトの主張の多くに疑問を発していた。フロイトの理論は…理論にすぎない。潜在意識の力学に関する彼の推測は、ほとんど証明不能で、問題の多いものであった。7
心理分析の実践に対しても攻撃が加えられてきた。O・ホバート・モウラー曰く「今日、矛盾を恐れずに言うならば、この国においても、どの国においても、心理分析が『成功』を収めたことはないと言える」。マーチン・グロスは、調査の結果「心理分析は、自らの主張において、完全に間違っているとまでは言えないにしても、過大に評価されている」と述べた。
(同上, p.74.)
人類は、神を捨て、聖書を捨て、神学を捨てて、心理学を選び取った。
しかし、その心理学が定説を出せないでいる。
われわれは、不安の中に放置された。
心理学はむしろその状態を誇りにすらしている。
「不安こそ、自分が存在している証である」とか言って。
問題はまったく解決していない。
高いお金を払ってわれわれが行き、子供たちにも通わせている大学の授業の内容がこのレベルなのである。
雲をつかむようなことのためにわれわれは多額のお金を使っている。
そんな空虚な学問をやめて、聖書神学を取り戻すべきではないか。
信仰を取り戻し、確実なものを手に取り戻すべきではないか。
私は、両親に対して何度も「自分がやっていることくらい充実感を覚えるものはない」と言ってきた。
両親からすれば「どこの馬の骨かわからない学問」である。
なにしろ、ゲイリー・ノースやケネス・ジェントリーといっても、誰も知らない。
「せっかく大学までやったのに、こんな変な道に逸れてしまった」と嘆いていたことだろう。
しかし、私には確信があった。
なぜならば、これこそが真理だと固く信じていたからだ。
聖書に基づく学問の確立こそが、今世界が必要としていることである。
神の言葉を中心とした「知識」の拡充。
それによる「教育と社会建設」。
一生をかけるに値する。
フロイトやユングが自分の頭で考えて作り出した「ほんとかどうかわからない」代物にお金と時間を使うより何億倍も有意義だ。
そして、この分野は手付かずである。
今、株を買えば将来何億倍も高値がつく。
実際そんな株などないが。
もし株で表現するなら、お買い得の銘柄だ。
歴史はすでに定められており、神の言葉が勝利するのだから。
フロイトやユングはすたれて、必ず聖書的学問が勝利するのだ。
私は、毎日、聖書的世界観の確立と拡充のために時間とお金を使っている。
私だけではなく、数多くの人がこの活動に参加し、本当の学問を開始してほしい。
そして、その活動には永遠の価値があり、報いがあるということを承知してほしい。
われわれがその本当の学問を開始し、それに基づいてカリキュラムが組まれ、教育が行われるならば、必ず多くの子供たちがその学校にやってくるだろう。
なぜならば、「そこに命があるから」。
神の命があふれている学問に基づく命のカリキュラムだから。
ヒューマニストの学校は絶対に対抗できないだろう。
命の学問を開始し、命の教育を始めよう。