オーバン・アヴェニュー神学は救いの構造をあいまいにする


(1)
聖書の救いの構造は、明瞭である。

「キリストは、失敗者アダムの代わりに試験を受けて合格したので、契約によってキリスト族に入る人は、キリストと同じように合格者になれる」というものである。

われわれは、生まれながらにアダム族である。

今から4〜5千年前の古代の彫刻を見ればわかるが、人体はわれわれのものとまったく同じである。

進化の跡はない。

DNAは4〜5千年間、同じ情報をコピーし続けた。

ということは、アダムも同じだったと推測できる。

(もっとも体はかなり大きかったらしいが。)

われわれは、確実にアダムの子孫である。

われわれと同じ体を持つ始祖アダムが、神の試験を受けた。

エデンの園は、試験場だった。

試験の内容は、「善悪の知識の木から取って食べるな」であった。

アダムは失敗した。

結果は、肉体の死と霊の死であった。

聖書は、われわれ人類がアダムの子孫として契約の失敗者として生まれてくると述べている。

だから、われわれは皆、死に、地獄に行く運命である。

そのため、神は人類を救うために、イエス・キリストを生まれさせ、人類の罪を背負わせて処罰され、肉の死と永遠の地獄を身代わりに負わせられた。

キリストを信じる人はみな、キリストとともにからだの死と永遠の地獄を体験した。

さらに、神はキリストにアダムの試験を再び与え律法に完全服従するかどうか試された。

キリストは合格し、それゆえ永遠の命を相続できるようになった。

それゆえ、キリストを信じてキリスト族になる人はみな、キリストともに永遠の命を受ける。

また、キリストは地上の王でもあったから、われわれも地上の王である。

キリストにあって、われわれは、全能の力を持っている。

神の御心ならば、われわれは奇跡を行うことができる。


まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14・12)

キリストが行われたよりも大きなわざを行うことができる。

キリスト族になったということは、恐ろしい力を得たのと同義である。

この驚異的な力によって、われわれは、地上全体を支配する。

歴史を通じて、神の国は拡大し、正義と愛は世界に広まる。

以上が、聖書の教えの骨格である。

これに反する教えを信じると、人類は呪縛され、力が出なくなる。

ものみの塔は、キリストは単なる人間であるとするので、キリストの贖罪の効果は一人に限定される。

完全無欠な人間が身代わりに死んでも、一人の命しか贖えない。

無数の人々をあがなうためには、キリストは人間であると同時に神である必要がある。

だから、ものみの塔に入る人は、異端であり、救いを失う。

こういう教えは古来、手を変え、品を変えて登場してきた。

正統的キリスト教は、これらの異端との戦いを通じて信条をまとめてきた。

教えにおいて失敗したら全部終わりである。

契約から追い出されるので、地獄に行く。

今再建主義の亜流が出てきた。

オーバン・アヴェニュー神学である。

別名フェデラル・ヴィジョン(FV)。

これは、アダムの失敗をカバーするためにキリストがやってきたという構図を覆し、アダム対キリストの明瞭な図式を崩している。

アダムはすでに救いの中にあったのであり、被造物を背負って試験を受けたのではないという。

伝統的な契約神学は、アダム契約は「業の契約」であり、アダムは業を行うことによって永遠の命を獲得すべきであると唱えるのに対して、オーバン・アベニュー神学は、アダム契約は「恵みの契約」であり、業を行う必要はなかったと唱える。

つまり、アダムの契約もキリストの契約も、同じ恵みの契約であったということになり、このため、「非二契約論」あるいは「一契約論」と呼ばれる。

これだと、なぜユダヤ人は生後8日目に割礼を受けたのかがわからなくなる。

「生まれながらの人間はアダム族であり、そのままでは失敗者なので、割礼を受けて神の契約に入る必要がある。」

これが、割礼(新約時代は洗礼)が示すところである。

オーバン・アヴェニュー神学によって、キリストの救いがあいまいになる。

(2)
改革主義者の中に「司法律法」に対する理解が欠けているのは残念だ。

聖書が主張する大原則は、

1.律法は廃棄されていない。

2.祭司制度が変わったので律法も変わった。

(1)動物犠牲や安息日などは廃棄されたのではなく、キリストという本体が現れたので不要になった。

(2)モーセ以降の旧約時代において祭司はレビ族がなったが、キリスト以降新約時代において祭司はキリストとクリスチャンであり、超民族化した。

そのため、司法律法は、あらゆる民族に適用されるように本質を生かして、民族的時代的なものを普遍的恒久的なものに解釈する必要がある。

批判者の中に再建主義は司法律法の生き残りをかけて、オーバン・アヴェニュー神学を作りだしたとか言う人がいるが、神の真理はわれわれの小手先で「生き残らせる」必要はない。

われわれが叫ばなくても石が叫ぶ。

 

 

2012年12月22日



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