自分の才能を生かし切れ!


天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ25・14-30)

1.

五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

タラントは、今のタレント(才能)という言葉の語源である。

つまり、ここで神は、人間に才能を与え、それを生かしてリターンを期待する投資家として描かれている。

われわれは、投資家である神に資金を与えられて生まれてくる。

自分が生来持っている才能は、神にリターンをもたらすために与えられている。

だから、神の国拡大のために自分の才能を生かさない人は、「悪いしもべ」である。

各人に与えられた才能は様々である。

ある人には5タラント、ある人には2タラント、そしてある人には1タラント。

才能に恵まれた人もいれば、そうではない人もいる。

神が問題にされるのは、単純な「結果の絶対的大きさ」ではなく「自分に与えられた力量に応じた、相対的な結果の大きさ」である。

神は、多く与えられた人には多くを要求される。

だから、少なく与えられた人は「少ないからやっても無駄だ」と考えてはならない。

その少ない資金を、少ないなりに十分に生かさなければならない。

少ない資金を有効利用した人は、資金が多いが有効利用しなかった人よりも評価が高い。

それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12・41-44)

「生活費の全部を献金箱に投げ入れた」人が「どの人よりもたくさん投げ入れ」たと評価される。

才能が乏しい人の場合、誘惑は「何もしない」ことである。

一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

「他の2人は5タラントと2タラントも与えられている。自分には1タラントだけだ。やっても無駄だ」と。

彼には誤解があった。

神を「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」と認識していた。

つまり「神は自分の才能以上の結果を要求されるだろう」と。

たとえば、「自分には歌手になれるような能力は与えられていない。しかし、神は私を歌手として成功することを求め、成功しないとひどく罰するだろう」と。

違う!

神はそんなことを求められる方ではない。

自分に与えられた能力の限界を超えるような結果を求めておられない。

2レプタしか持っていなかったやもめに対する評価は、その2レプタ分のリターンで決まる。

問題は「全力を出し切ったか?」である。

「神の国のために、自分にできるだけのことをやろうとしたか?」ということである。

神はわれわれに「世界的スーパースターになれ」と言われない。

世間は、こういうことを期待する。

われわれが自分の才能を生かして、何事かを実現したとしても、それが平凡な業績ならば、見向きもされない。

世間的な評価を気にする人は「世間に見向きもされないことをやってもむだだ」という誘惑に陥りやすい。

われわれが気にすべきは、世間の目ではなく、神の目である。

神がわれわれにどの程度の結果を求めておられるか、である。

2.

「勝ち組」「負け組」という言葉がはやっている。

世間では、たとえば、年収1000万を超えたら勝ち組、それ以下は負け組とか、世間が考えた基準に基づいて、絶対的な評価が行われる。

聖書的に言えば、「神の国のために自分の才能を出し切った人」は勝ち組であり、「出し切らなかった人」は負け組である。

「まもなく再臨があるから神の国を地上で拡大することなんか無駄だ」というディスペンセーション主義者は、完全な負け組である。

せっかくクリスチャンになっても、こんな教えを信じて、しかも、それを他人に伝える人生は「完全な失敗」である。

神の基本命令は「地を従えよ」である。

この地上世界を支配することである。

無千年王国論者である大説教家ロイド・ジョーンズは「地上を変えようとしてはならない。それは変わらないのである」と言ったので、完全な失敗者である。

3.

緊縮財政論者も失敗者である。

彼らの発想は、「食べ物がないから、食事を減らそう」である。

この発想が有効なのは、周りに食べ物がなくて一時的に食事を減らさなければならない冬山遭難のような特殊な状況のみである。

作物を植えたり、狩りをして食料を獲得できるチャンスが無限に広がっている世界において、この発想は通用しない。

収入を増やす可能性に満ちている自由な世界では、積極的に投資し、開拓すべきである。

今の増税財務省や緊縮論者の政治家たちは、自分に与えられた能力を開拓に振り向けることをしない「悪いしもべ」である。

このような「内向きオタク」の日本は、今後ますます縮んでいく。

縮むだけならよいが、このようなメンタリティーでは、他国に侵略される。

日本民族の存亡は、「自分の才能を生かし切れ!」という聖書の原則を守るか守らないかにかかっている。

 

 

2019年6月12日



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