日本人が日本という国の本質について理解する時代が来た


空海は、大秦景教流行碑が建立された781年の23年後に唐に入った。

つまり、当時の長安は一般に信じられているような仏教の中心ではなく、むしろ、キリスト教のさかんな場所であった。

空海は、景教に強く影響を受けた三蔵の弟子である恵果から密教を学び、灌頂を受ける。

だから灌頂はバプテスマである。

形態も意味もバプテスマそっくりである。

密教の教義は、キリスト教そっくりであり、日本の仏教がキリスト教の一種であるとすら断言できるほどである。

もちろん、われわれが信仰として受け入れるだけの厳密さを持っているわけではなく、異教的要素を多分に含むが。

灌頂と同時に与えられた名前(いわば洗礼名)は、遍照金剛。

遍照=あまねく照らす=天照。

天照大神が、景教の神であるとの印象を受ける。

大秦景教流行碑の製作者は伊斯。

この伊斯は、イタリア語Yesの中国語訳である。

ローマのYes Hotelは中国語で伊斯酒店。

http://www.tripadvisor.com.tw/Hotel_Review-g187791-d650621-Reviews-Yes_Hotel-Rome_Lazio.html

伊斯=Jesus(イエスス:ラテン語)またはΙησουS(イエースース:ギリシャ語)=イエスなのではないか。

伊勢神宮の伊勢はもともと伊蘓と書いた。

私は、伊斯が日本に来て伊蘓となったとの印象を持つ。

だから、伊勢神宮=イエス神宮。

なぜ空海は20年の予定を2年で帰国したのか。

一説によると、恵果が日本にこそ密教の根本があるからと。


本来は2年や3年の修行では終わらないはずなんです。一生かけてやるほどのものです。それが、なぜ短期間で戻ってこられたかと言うと、向こうで恵果ケイカさんにみとめられて、「あなたが学ぶものはここにはないんだ。あなたの住んでいる霊の元の国に全てがある。それを聖徳太子がすでに残しているから、あなたは知っているはずだ。」と教えられた
http://ameblo.jp/hihihaim/entry-10620331167.html

つまり、本家本元に帰れと。

聖徳太子の側近は、景教徒秦河勝。

聖徳太子の生誕話はキリストのそれと酷似している。

蘇我氏が聖徳太子の一族を迫害し、聖徳太子を仏教の推進者として紹介したため、史実はゆがめられているが、もともと日本は景教の国だったのだろう。

景=日の京。

京という字は、都を意味する。

「京」のほうが《みやこ、京城》という意味です。
「亠」は「高」の上部と同じで、楼閣の屋根の形状を表しています。
「口」は集落やみやこを囲う城壁を意味し、
「小」は小高い土台(丘)を描いたものです。
古来より人は、洪水などの水害や湿気の及ばない高台を築いて
その上に集落を構成し、それが後には中心的な街(都会)となり、
「みやこ」になったのです。
そのため、原意には《小高い丘》という意味もあり、
《高い丘》という意味の「京丘(けいきゅう)」という語もあります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1359691568

つまり、景とは、日の都。

景教=日の都の教え。

日の都=日の本。

日本こそが、景教にふさわしい土地だとの判断が恵果にあったのではないか。

そして、それが蘇我氏によってゆがめられてしまったので、空海にはそれをもとに戻し、国を立て直す使命があると自覚したのか。

恵果は大師に早く日本へ戻り、密教を広めることを説いた。「いまこの国にての縁は尽きた。久しく留まる事をせず、この両部の大曼荼羅、一百余部の金剛乗の法、および三蔵転付のもの、供養の法具を本国に帰りて流伝すべし。今すなわち法の在りとし有るを授く。経像の功も畢んぬ。郷国に帰りて国家に奉じ天下に流布して福を増せ。しかれば四海泰く、万人楽しまん。仏恩を報じ、師の恵みを報じ、国の為に忠家においては孝あらん。」
http://www.henro.jp/daishi-2.htm



恵果は、景教にふさわしい国である日本から天才がやってきた、これは、20年もぐずぐずしているべきではなく、日本の国と人々のために役立つ人だから、早く帰るべきだと感じたとの印象を持つ。

聖徳太子が没したのが622年で、側近秦河勝が流刑にあったのが7世紀中ごろ。

この頃から、806年に空海が帰国するまでの200年弱の間、大迫害があり、日本から景教の影響が途絶えたのではないだろうか。

一説によると、ありとあらゆるキリスト教の痕跡が根こそぎにされたという。

このような時代背景があったため、空海は大っぴらに景教を名乗ることができず、仏教の一派として人々に紹介したのか。

当時、秦氏も表舞台には立たず、裏方に回るようになった。

今でも皇室において秦氏は、いわば黒衣である。

天皇の儀式も表向きキリスト教とは悟られない形にはなっているが、われわれクリスチャンから見ると、まさにキリスト教そのものである。

茶道は、キリシタン迫害時代のキリシタンたちの「聖餐式」であり、裏千家の家元は、上記のことを認めている。
http://tankyu.hatenablog.com/entry/20070114/kirishitan

羊羹もなぜ羊なのかというと、キリストの聖体であると考えれば理解できる。

日本では、なにもかもが裏に回ってしまった。

しかし、それも時間の問題である。

神はいつまでも秘密のままにはしておかれないだろう。

日本人が日本という国の本質について理解する時代が来た。

 

 

2014年12月31日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net