1.
昨日、胃痛により病院に行った。
あまりにも痛いのでフェイスブックでつながっているのクリスチャンに祈っていただいた。
すると、嘔吐を催したので、内容物を出したら痛みが和らいだ。
帰宅し、寝ている間に症状はすっかりおさまっていた。
今は普通に食事ができる。
祈りの効果を実感した。
クリスチャンは、祈りによって解放される。
これは、安息日の恵みである。
イエス・キリストにあって、われわれは、永遠の休みの中にある。
祈れば、病気や苦しみ、疲れ、重圧から解放される。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11・28)
2.
安息日の規定は、超民族的な時代である新約時代においては、文字通り適用する必要はない。
礼拝日が土曜日でなければだめだ、日曜日でなければだめだ、ということはない。
もし特定の日に限定すべきだという人がいるなら、聖書的根拠を述べなければならない。
そして、太陽暦の体制のもとでいくら土曜日や日曜日に安息日を守ったとしても、それは、守ったことにはならない。
なぜならば、旧約聖書の暦は、月に基づいていたからである。一か月は新月から始まった。
今は太陽暦である。暦制度がまったく違うのに、曜日にこだわるのはナンセンスである。
ちなみに、私は、暦制度は、太陽暦がいいと思う。
なぜならば、太陽はイエス・キリストの象徴だからだ。
まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。(詩篇84・11)
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇19・4-6)
また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(黙示録1・16)
神の法の施行方法は、民族ごとに異なってもよいが、精神は統一されるべきだ。
安息日の精神とは、イエス・キリストによる「安息・救い・癒し・解放・命」である。
クリスチャンは、その王としての立場にふさわしく、様々な束縛から解放されるべきである。
多額の借金、病気、隷属、抑うつ、虐待・・・
王である者にこれらはふさわしくない。
もし日曜日に礼拝にみんなが集まるならば、それは、「安息・救い・癒し・解放・命」のためである。
教会は、王たちの集会である。
この世界を統治する者たちの集まりである。
それゆえ、クリスチャンの間に貧困があるのはふさわしくないので、相互援助のシステムを作るべきである。
7年に1度の徳政令と1年の休暇、50年に1度の徳政令と2年の休暇を与えるべきである。
病気のクリスチャンのためには祈りと癒しを。
拘束のもとにあるクリスチャンのために、解放運動を。
こういうことが具体的に行われなければ、教会は安息日の本来の目的を達成したことにならない。
3.
安息日が束縛の戒律のように考えられているが、逆である。
安息日、安息年の制度は、クリスチャンの王権の確立を目的としている。
王である者としてふさわしい姿になれるように、クリスチャンが互いに助け合うのが、安息日の意味である。