1.
「再臨が未来にあるからこそ頑張れる」というプレ・ミレの人は大きな間違いを犯している。
再臨がこれから来ると考えて頑張れるのは、牧師とか宣教師、伝道師だけである。
一般の人、とくに技術開発者にとって、世界に破局が訪れるという予言は迷惑でしかない。
世の終わりが来ます、世界最終戦争が起こり、人類の3分の2が死滅します、と宣言されながら、世界平和のために活動できる人がいたら、思考が分裂しているとしか言えない。
もしくは、自分をだましているのかもしれない。
矛盾をそのまま抱え込んでどうやって生活できるのか、不思議でならない。
紀元70年に再臨はあった。(もちろん、世界の終末は未来にあるが。)
黙示録において、イエスは「もうすぐ来る」と言われた。
プレ・ミレの立場を取れば、ここで、イエスは嘘をついた、もしくは、イエスの言葉は成就しなかったと考えるしかなくなってしまう。
もっとはっきりとした言葉がある。
マタイ24章の「この時代が過ぎ去る前に、これらのことは起こる」。
「あなたがたが見ている神殿の石が積まれたまま残ることのない日」が、「この時代が過ぎ去る前に」起きる。
「あなたがた」とは弟子である。
「弟子が見ている神殿」=イエスの時代に建っていた神殿。
これは、紀元70年に崩壊した。
イエスは「わたしが再び来るときに、この中に生き残っている人がいる」と言われた。
しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」(ルカ9・27)
聖書は明らかに、再臨が紀元70年にあったと述べている。
2.
エゼキエル書の預言をはじめとして、旧約聖書については、基本的にイエス・キリストが成就した(「わたしは律法と預言者を成就するために来た」)ので、エゼキエルの第3神殿については、あれはイエス・キリストの御体において成就されたと考えるべきである。
文字通りの石づくりの神殿とすると、いろいろと矛盾が生じる。
「神殿の敷居の下から東のほうに流れ出た水は、大きな、渡ることができないほどの川となり、「アラバに下り、海に入る」ので、「エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所になる」(エゼキエル47・8-10)と記されている。
「アラバ」とは、死海から紅海に至る砂漠地帯で、「エン・ゲディ」は死海の西側半ばにあり、「エン・エグライム」は紅海の北端の港である。
死海は、海面下400メートルのところにあり、エン・ゲディは死海から60メートル程上のところにあるので、エン・ゲディからエン・エグライムまで川ができるには、川の水は340m以上の落差のある勾配を上らねばならない、ということになる。 (エン・エグライムの場所が不明なので訂正します。)
この神殿の細部の描写の非現実性はこの神殿そのものが象徴であるということを示している。
http://www.millnm.net/qanda2/PylcmpB37128.htm
エゼキエル神殿では「「罪のためのいけにえとして若い雄牛一頭…の血を取って、…贖いをしなければならない」」ので、イエス・キリストの犠牲の血は無視される。
「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。…これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。 」(ヘブル10・14、18)
新約時代において、イエス・キリストの体及びクリスチャンの体が神殿(「聖霊の宮」)になので、もはや石作りの神殿は不要。
また、イエス・キリストにおいて天地にあるいっさいのものが和解された(コロサイ1・20)ので、イスラエルだけが聖地というわけではなく、全地が聖地である。
ゴグ・マゴグについては、エゼキエルにおけるゴグ・マゴグの襲撃は、紀元前第2世紀におけるマカベヤ家のイスラエルがシリアに襲撃され、敗れたことを預言するものであり、終末の出来事と解釈することはできない。
エゼキエル書は、イエス・キリストの到来を預言し、その後に来る新しい時代について預言しているのであって、われわれの未来の預言ではない。