日本を破壊しつつあるリバタリアニズム
リバタリアニズムとは「個人の自由権を絶対的に重視し、それに制約を加える国家の役割を最小限度にとどめようとする自由至上主義の思想」である。
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これは、「多」を重視する思想である。
社会を有機的に構成される組織体と見ない。
「強い者が生き残り、弱者は切り捨てるべきだ」と考える傾向が強い。
新自由主義はこの考えに近い。
だから、小泉・竹中政権以降、日本は従来の互助組織的な性格を失い、株主至上主義のもとで、利益が労働者に還元されにくくなっている。
聖書は「一と多の両立」を教えている。
神が「一であると同時に多」であるように、社会も「一であると同時に多」でなければならない。
「個人だけが尊重され、有機的な組織体である国を破壊する」今の自民党の政治は間違っている。
国家を超越した国際金融資本が最大利益を得るために、国民を搾取する体制は、新たな植民地主義である。
結局、このような「多」を偏重する思想は生き残れない。
短期的な結果を求める株主によって、企業は、長期的な戦略を立てられない。
分単位でフィードバックされる視聴率に動かされる最近のテレビ番組は、質の低下に苦しみ、かえって視聴者をテレビから遠ざけている。
個々の企業の短期的な利益を優先する今の日本の企業社会は、未来志向になれず、現在志向である。
こんな状態では、将来日本の体制も文化も労働者も疲弊し、潰れてしまうだろう。
リバタリアニズムは、聖書の「永続的な契約の概念」に基づいて、破棄されなければならない。
リバタリアンは、すべての経済的な交換の基礎として、「絶対的自己所有の概念」を提示する。しかしそれは、リバタリアンの「生涯契約の違法性の概念」と衝突するときに、忘却の彼方に消え去る。
リバタリアンの世界は、人を、いかなる種類の将来の労働サービスにもつなぎ止めることができないし、彼をして、最近遺棄された妻を愛し、大切にし、サポートせしめることもけっしてできない。
妻は、美しい姿をしていた時期に、自らの若さを彼に提供したかもしれない。若さは、自分の「生産性の高い資本の」段階、もしくは「交換価値の高い」段階である。
しかし、ひとたびこの資本が失われると、妻は法的な保護を失うことになる。それゆえ、リバタリアンの契約の極端な非永続性は、このユートピア思想をその基礎として据えるあまりにも近視眼的な社会の機構を脅かすことになるだろう。
信仰に基づく社会において「永遠の誓約の安全性」が与える未来志向は、首尾一貫したリバタリアンの社会においては存在できないだろう。
諸契約の条件を実行させるいかなる制度的な手段も存在しないので、これは、最終的には、短期契約の施行可能性に対する人々の信頼を損なう結果となるだろう。
契約の拘束的な性質を拒絶する社会は、拘束的な契約がもたらす経済的な祝福を長期的に享受することはないだろう。
―Gary North、The Sinai Strategy: Economics and the Ten Commandments, pp. 136-7.
2018年11月26日
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