三神論は異端である8


詳細かつご丁寧な返信を賜わり、恐縮にございます。

三位一体の議論は、とうの昔に決着がついて、封印されたも同然と思っていましたが、まだ議論の余地があったことを知り、驚いております。

法人格としての一人の神!

分かりやすいと思います。

もし、この議論が世界的に広がっていけば、教会史に偉大な足跡を残し、「神学のウルトラC」として後世まで記憶されそうな気配を感じます。

前人未踏の領域が、まだ三位一体論の中に残されていたとは!

これは大発見ではないでしょうか。

富井様のご健闘をお祈り致します。ありがとうございました。

ご返事ありがとうございました。

さて、この考え方をする人はすでにおりますので、私の発見とは言えません。

ただ、神が男女を似姿として創造されたということを「神は契約的な合一によって一人である」という根拠としたのは、見たことがないので、私が初めてかもしれません。

「キリストは御父によって創造されたのではなく、生まれたのである」という正統派のキリスト論も、契約によって説明すれば、すんなり理解できます。

つまり、存在論的には永遠の昔から神は三人おられ、誰が誰を創造したという関係はありませんが、契約的に「父子の関係が存在する」という機能的な関係が存在するのです。

「生まれた」というのは、あくまでも「父子という関係を設定した」であって、文字通り「生まれた」と解釈する必要はないのです。

「存在しなかったものが存在するようになった」ということではなく、永遠の昔から存在した第一位の神と第二位の神が「父子」の間柄になった、ということです。

これを存在論的な意味で「生まれた」というと「キリストは存在しなかったのに、存在するようになった」と考える以外にはありません。

これは聖書の裏付けがまったくありません。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8・58)

ここで「わたしはいる」という箇所はギリシャ語で#gs#egw eimi#ge#(わたしは存在する)であり、ヘブル語の「エフイェー」という神の御名「我は存在する」のギリシャ語訳です。

つまり、ここで、イエスは「私は『我は存在する』という名でモーセに自らを啓示した神である」と言っているのです。

イエスは「わたしは存在の根源である」と自ら証言されました。

それゆえ「御父によって創造された」と考えることはできません。

そして、「存在論的に御父から生まれた」と考えることもできません。

私たちはイエスを「永遠の昔から存在された神であるが、第一位の神との間に契約的に父子関係を結んでおられる方」と理解すべきです。

このように、契約的に理解すると、古代の信条の意味も明らかになりますし、聖書もすんなり合理的に理解できます。

そのため、私は「説明の仕方として存在論的に三、契約的に一と考えるべきではないか」と問題提起をしています。

しかし、正統的な神学では「存在論的に一、しかも、存在論的に三」と理解すべきだということになっていると今の正統派の人々は言います。

ただ、残念なことは、この正統的な見解には「論理的な矛盾」という大きな欠点があります。

一つしかない存在が三つある。

これは、矛盾です。

しかし、彼らによれば「人間の頭では理解できない神秘」なのだそうです。

ローマ・カトリック、正教会、プロテスタントはみな「三神は間違いだ」とし、「存在論的に一であると同時に三」という神秘を信じています。

2000年のキリスト教の歴史の中で受け入れられてきた(らしい)この考え方を簡単に否定できるわけはありません。

やはり歴史の重みがあります。

ですから、私には「契約的合一説」を唱え、それを主張することに躊躇があります。

あくまでも2000年の教会の英知を無視するつもりはありません。

もう一度言いますが、もし間違いであれば、潔く訂正します。

ですから、誰か、聖書から証拠を示して反論していただきたいのです。

 

 

2018年11月20日



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