誰も「科学だけを信じる」とは言えない
科学の対象は、経験できるものに限られる。
データを集めることができない対象は科学の扱うところではない。
これは、厳密な科学の定義であり、この定義を超えてしまうと、それは科学ではなく、宗教になる。
科学とは帰納法を手法とするが、宗教は演繹法を手法とする。
帰納法とはデータを集めて、そこから法則なり理論なりを導き、実験を行って再現性があるか確認する手法。
演繹法とは、あるドグマ(教え)があり、その教えに照らして正しいかどうか判断する。
この2つの方法は、どちらが正しいかということではなく、対象の種類によって使い分けるべき正当な方法である。
データを集めることができない事柄、たとえば、死後の世界がどうなっているかとか、物事の意味について科学は何も言えない。
死後の世界があるかないか断定できない。
殺人が罪かどうか断定できない。
なぜならばデータを集められないから。
死後の世界に関するデータをどうやって集めるのか。
殺人が良いか悪いか科学によってどうやって決定するのか。
それでは、科学が扱えない領域の事柄については、人間はまったく知ることができないかというとそうではない。
聖書的キリスト教では、科学が扱うことができない領域のこと(叡智界)について、神の啓示である聖書によって知ることができると考える。
全知全能である神は万物の意味について定義するので、物事の意味や善悪について聖書を読めば理解できる。
死後の世界をご存じである神が、死後の世界について語っておられることによってわれわれはそれを知ることができる。
人間は、帰納法で得られる知識だけでは生活できない。物事の意味、善悪の判断基準、人生の目的など、科学を超えた領域のことがらについて判断するためにどうしても宗教を利用せざるをえない。
名前のついている宗教を信じているかどうかは関係ない。
だれでも、科学的根拠を得られない事柄を知るために、演繹法に頼るしかない。
それゆえ、万人は不可避的に宗教家である。
誰もが、人生の意味、物事の意味、善悪、死後の世界などについて、無根拠な断定を下しながら生活している。
2015年12月30日
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