われわれは進むべき道を常に示される必要がある


「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。
この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。
なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。――主の御告げ――この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。』」
ユダの王家のために――「主のことばを聞け。(エレミヤ21・8-11)

1.

ユダ王国の最後の王ゼデキヤに対して、神の預言者エレミヤは「降伏せよ」と命令した。

しかし、ゼデキヤは命令に背いて戦い、その結果、捕囚の憂き目にあった。

神の御心には2種類存在する。

(1)一般的

(2)具体的

一般的な御心は、聖書の中に記されている神の法である。

われわれは、十戒及びその細則に記された基準に従うべきである。

しかし、神の御心は、個別具体的な場面でも示される。

一般的な御心から言えば「イスラエルは神の民だから異邦人を支配すべきである」と言える。

しかし、このゼデキヤのように、個別具体的な場面では「カルデヤ人に降伏する」というのが神の御心である。

イスラエルは、あまりにも堕落していたので、神は、その刑罰を下すことに決められた。

もはや「戦う時期は過ぎた」。

堕落したイスラエルは神の決定に服するべきだった。

神は、一般的な状況においても、個別具体的なそれにおいても、絶対である。

具体的な御心を示されたならば、それに従うべきである。

2.

神は、個別具体的な御心を示すために、聖書を用いられる。

聖霊は、聖書から道を示される。

しかしそれだけではない。

神は、預言者としてわれわれに人や動物、物体、自然現象を使わされる。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19・1)

しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。(2ペテロ2・16)

その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。(使徒の働き11・28)

男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。(1コリント11・4-5、12・10, 28-29、13・2)

これらの預言は、聖書と矛盾しない。

それゆえ、聖書に基づく吟味が必要である。

個別具体的な場面において神が自分に送られた預言者の言葉を、吟味しなければならない。

3.

一般的な状況では良いことでも、個別具体的なそれにおいては悪になることがある。

モーセは、神のお告げを受ける前に、自分の判断で岩を打ち、そこから水を出した。

その行為のゆえに、彼はカナンの地に入ることができなかった。

「神が民に必要なものを与える」というのは一般的な真理であるが、個別具体的な状況においてもそうであるとは限らない。

われわれは、進むべき道を常に示される必要がある。

 

 

2018年6月5日



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