殺人を犯す人は御国に入れない



まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。
昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5・21-22)

パリサイ人や律法学者の義とは、律法主義の義である。

律法を文字通りとらえ、その本質を守らない義。

「殺すな」という戒めを、文字通り殺さなければいいと考える程度の義。

「殺さなければ、兄弟を馬鹿と言ってもいい」と考える程度の義。

「殺さなければ、理由なく兄弟に向かって腹を立ててもいい」と考える程度の義。

こういうレベルの義では、天の御国に入ることはできない。

つまり、救いの契約に入ることはできず、外に放り出され、永遠の刑罰を受ける。

これは行為義認を勧めている箇所ではない。

つまり、「○○をすれば救われる」ということをイエスは言っておられない。

「契約の民としてこのレベルに満足し、本質的なところで戒めを大きく違反し、それを悔い改めず、悪の中で喜んでいる人々は、契約に入ることはできないし、契約に入っていたら追い出される」ということを言っている。

無条件の救いなど存在しない。

「何をやっても救われます」などという教えは、間違いである。

契約の中にとどまろうとする人々、つまり、クリスチャンは、正々堂々と律法を破ることはできない。

正々堂々と罪を犯すような人は、クリスチャンになれない。

クリスチャンとは、契約にふさわしい存在になるよう悔い改め努力する人々である。

たとえば、料理教室に通うとする。その教室は規定に従って目的(料理をマスターする)を同じくする人々の契約的集団である。

入るには資格はいらない。

無条件で入ることができる。

ただし、入った後で、その授業や交流の秩序を乱す人は追い出される。

契約的集団である以上、そこにとどまるには一定の規則がある。

それと同じように、救いの契約の中に入った(イエスを信じ、バプテスマを受けて教会に加わった)としても、契約の主である神の御心に著しく違反するならば、その人は追い出される。

料理教室でとどまるには、静かに先生の教えに耳を傾け、それを実践し、他人に迷惑をかけないことだ。

同じように、クリスチャンは、「人を殺す」のはもちろんのこと、「兄弟に向かって理由もなく腹を立てる」「馬鹿」とか「能なし」と言うならば、契約から追い出され、永遠の命を失うのだ。

パリサイ人や律法学者は、「殺人行為」を犯さなければ十分だと考えていた。しかし、イエスは、殺人を行っていなくても、兄弟に向かって理由なく腹を立てる、馬鹿・能なしと言うのは、殺人に含まれると言われたのだ。

ネットで、相手を知らないクリスチャンが、別のクリスチャンについて馬鹿とか、無能とか言い、腹を立てているならば、その人は、地獄に行く。

たとえ教会の牧師をやっていても地獄行きである。

死んでから、あっと驚くのである。

天国に行けると思っていたのに、地獄に来てしまったと慌てる。

クリスチャン同士で互いに馬鹿呼ばわりするような連中は、すでに契約から追い出されている。

また、そういうことをして悔い改めない人々が教会にいるのを牧師が気づき、しかるべく悔い改めを迫っても、なおも反省なく続けるならば、除名すべきである。

では、ノンクリスチャンについてはどうか。

「兄弟に向かって」とある。

神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マルコ3・35)

イエスは、神のみこころを行う人、つまり、契約の民は互いに家族であると言われた。

兄弟ではない者、つまり、ノンクリスチャンに対して馬鹿ということは合法だろうか。

聖書自身、無神論者を馬鹿と呼んでいる。

愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。(詩篇53・1)

聖なるものを理解せず、それを攻撃するような人々は犬であり、豚である。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7・6)

ノンクリスチャンだからというので相手を差別することは禁止されている。

なぜならば、律法では、「人を殺してはならない。隣人のものをむさぼってはならない」とあるから。

「兄弟を殺してはならない。兄弟のものをむさぼってはならない」とは書いていないから。

ノンクリスチャンでも、聖なるものを認識できず、逆にそれを与える者を攻撃するような人々に限定されている。

彼らは、豚であり、犬と同じ、つまり、動物のレベルなのだと認識すべきである。こういうレベルの人々をそのように描写しても罪にはならない。

そもそも、われわれは、こういう人々とかかわり合ってはならない。そういう人々に聖書の教えはもちろんのこと、馬鹿とか犬とか豚とか罵りの言葉を吐くべきでもない。

ひたすら遠ざかることである。

殺人とは、単に包丁や拳銃で人の命を殺めることだけではなく、「馬鹿」とか「無能」、「理由のない怒り」も含まれる。

反日教育で、日本人をいわれのない罪に落とし、罵倒し、デモでその所有物を破壊する行為は、例外なく殺人である。

たとえ一人も犠牲者がなかったとしても、神の目から見て、それは殺人である。

 

 

2012年10月29日



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