旧約のシステムと新約のそれとを混同してはならない


旧約のシステムと新約のそれとを混同してはならない。

今でもエルサレムに神殿を建てようとする人々がいる。

新約時代に、神殿は「クリスチャンの体」である。

クリスチャンの体は、神の霊が宿るところ。


あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・19)

イエスは、神殿を三日で建てると言われた。

イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2・19)

これはもちろん「復活の御体」である。

つまり、神殿は、イエスの復活の体になった。

そして、クリスチャンは契約によって一体であるから、われわれの体も神殿である。

だから、新約時代において、石づくりの神殿など不要なのだ。

石づくりの神殿をエルサレムに建てることは、イエスが再建された神殿を否定することになる。

今のシステムは、エルサレムの神殿を前提としてはいない。

私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(ヨハネ4・20-23)

「あなたがたが父を礼拝するのは、エルサレムでもない、そういう時が来ます。今がその時です。」

イエス以来、礼拝は、場所に限定されない。

だから、エルサレムの神殿でなければならないというわけではない。

プレ・ミレの人々は、神殿の再建を主張する。

それは、エゼキエル書に預言されていると。

彼は私に言った。「人の子よ。神である主はこう仰せられる。祭壇の上で全焼のいけにえをささげ、血をそれに注ぎかけるために祭壇を立てる日には、次のことが祭壇に関する定めとなる。
わたしに仕えるために、わたしに近づくツァドクの子孫のレビ人の祭司たちに、あなたは、罪のためのいけにえとして若い雄牛一頭を与えよ。――神である主の御告げ――
あなたは、その血を取って、祭壇の四本の角と、台座の四隅と、回りのみぞにつけ、祭壇をきよめ、そのための贖いをしなければならない。(エゼキエル43・18-20)

新しく建てられる神殿では、動物の血を祭壇に注ぎかけ「贖いをしなければならない」とある。

イエスの血が十字架上で流されたのに、なぜまた動物の血を?

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。(ヘブル10・10)

イエスの犠牲は「ただ一度だけささげられた」。

それで「私たちは聖なるものとされている」。

なぜ、動物の血が必要なのか。

本体が現れたのに、なぜ影でしかないものが復活しなければならないのか。

エルサレムの神殿へのこだわりは、神の統治のシステムの変化に対する誤解からくる。

旧約のシステムはイエスによって成就したのだ。

全部成就した。

それで、今は新しいシステムになった。

それは、「クリスチャンの体こそが神殿」というシステム。

イスラエルやエルサレム、神殿に対するこだわりは、この新しいシステムに対する無視である。

「豚を食べるな」とか「神殿を築け」とか「エルサレムは聖地だ」とか、「イスラエルの再建を」とか。

こういうシステムは、すでにキリストにおいて成就され、不要になった。

プレ・ミレとは、ユダヤ教への逆戻りである。

それは、契約の成就者としてのイエスの御業の否定である。

 

 

2013年2月3日



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