物部氏の宗教はキリスト教であった
司馬遷『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述があります。
「東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、蓬莱・方丈・瀛州(東瀛とも)のことであり、蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。のち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている。[3]。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった[3]。」(Wikipedia―徐福)
日本には数十箇所徐福伝説があり、徐福が訪れた国が日本であるのは間違いないでしょう。
徐福が日本に来たと記す最初の文献『義楚六帖』(五代の後周時代)に次の記述があります。
「倭は中国の東海の中にある。秦の時徐福が五百人の童子と五百人の童女を引き連れてそこに住み着いた。その国の都の東北千余里に蓬莱山がある。徐福はそこで子孫をふやした。彼らは日本では秦氏と呼ばれている。」
徐福の子孫は、ここで秦氏と呼ばれていますが、物部氏の祖先でもあります。
日本書紀にあるように、饒速日は物部氏の祖先でした。
「これ(饒速日)は物部氏の遠祖である。(此物部氏之遠祖也)」
元伊勢籠神社の主祭神は「饒速日命(ニギハヤヒ)」で、籠神社のすぐ近くに徐福の上陸地点があることから、饒速日と徐福の関係は明らかです。
また、明応八年(1499年)に成る河野氏の秘伝的家伝書『水里玄義』に、次のようにあります。
「越智姓
神饒速日命より出つ。伝に曰く、秦の徐福吾が朝に来たりて裔をととめ、其の孫功有りて与州越智郡を領す故に越智を以て姓となす、云々と。福(徐福)の廟は熊埜[くまの]神の前に在り。姓氏録に云ふ、秦忌寸[はたのいみき]、神饒速日命より出つ、越智直[あたい]も同神に出つ、熊野連[むらし]は同神の孫味饒[うまにき]田命の後なりと。
古説かくの如く、徐福と饒速日と一祖両説にしてかつ和漢を隔つ、これ不審を生する所なり。」
つまり、徐福と饒速日は同一の祖先だと。
中国の秦は、西域の?氏の国でした。
徐福は、秦の始皇帝(本名は?政)と同じ?氏の出身です。
「元和姓纂」という書物によると「徐は?姓、伯益の後(=末裔)」とあり、徐福も元来は?氏。
ちなみに、?州は日本の別名です。
秦については、中国のもっとも西にある大国ローマを大秦国といい、秦はそれに由来していると思われます。
?族が西域の民族であったことから、ローマからの移住者であったのかもしれません。
「『後漢書』桓帝延喜9年(紀元166年)に、大秦王安敦の使者と称する者が海路到来したと記されており、その安敦(アントン)王の年代とローマ帝国五賢帝の最後の人、マルクス・アウレーリウス・アントニーヌスの治世(紀元161年〜180年)とが、ちょうど重なることからもわかります。」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0929&f=column_0929_003.shtml
ただ、始皇帝の当時のローマはまだ国としては大帝国を建設しておらず、ユダヤはペルシャの支配下に置かれていました。
1974年に発見された兵馬俑の中に、非漢民族らしい顔つきの陶俑があり、副葬された労務者の遺骨のDNAからペルシャ人やクルド人がいたらしい。始皇帝の配下に、ペルシャ人がいました。
ペルシャに多数の捕囚ユダヤ人が残っていましたので、ペルシャ人がいたならば、ユダヤ人がいた可能性もあります。
それゆえ、徐福がユダヤ人であった可能性があります。
徐福がユダヤ人であったと思わせる証拠は、饒速日を祭る籠神社の奥宮の真名井神社の石碑に六芒星があり(今はないが最近まであった)、それは籠神社の裏社紋であるということ。
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/img/sekihi.jpg
紀元前2世紀のハスモニア王朝時代に建てられたユダヤのカペナウムの遺跡に六芒星があります。
http://michaelminn.net/media/2011/05/2011-05-25_12-27-26.jpg
それゆえ、六芒星がそれ以前に存在した可能性があります。
籠神社の宮司海部氏によると海部氏は物部氏の中核の氏族です。
同じ物部氏の神社である諏訪大社には、アブラハムのイサク奉献とそっくりの儀式が行われていました。
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/096suwa.htm
物部古神道では、動物犠牲が行われており、それを紀元後にやってきた秦氏がやめさせ、その監視役が禰宜でした。
「全国の神社には監視の為に秦氏グループの神祇を司る賀茂氏から禰宜が派遣され…」
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1819453.html
また物部氏の祭祀氏族である忌部氏、そしてその忌部中の忌部と言われる賀茂氏がつかさどる宮中での儀式の中心である大嘗祭においては、キリスト教のバプテスマと聖餐に酷似した儀式が行われています。
「天皇即位後の初めての新嘗祭である、大嘗祭において、天皇は、聖水沐浴、神人共食、御衾(おぶすま、寝所)秘儀を行う。折口信夫博士を始めとする国学の大家たちによると、次のような意味があるという(http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-30.htm)。
すなわち、
(1)聖水沐浴
天皇は、「天羽衣」と称される湯帷子(ゆかたびら)を着て湯殿に入り、湯槽の中でそれを脱ぎ捨てられる。そしてそこを出て、新たな天羽衣に着替えられ、神饌が用意された寝所に進まれる。なぜ「天羽衣」というかと言えば、聖水による沐浴とは、単なる禊ぎではなく、産湯であり、これは、新生を意味しているからである。
(2)神人共食
新生した天皇は神(天照大神)に神饌を供えられ、ともに与れる。神道において、食は生のエネルギーであり、新たな魂である。すなわち、このとき天皇は天照大神と同じ霊力を身体に入れられる。
(3)御衾秘儀
一説に神人共寝だと言われ、また、紀記の天孫降臨の際にニニギ神が身にまとわれた御衾と同意だと言う。御衾に包まれたニニギ神の、産着に包まれた赤ん坊のような姿とは、実は穂に包まれた稲の姿であり、稲魂の誕生こそが含意である。
ここに一貫して流れているのは、死と再生のテーマ。
水の中で古い自分を捨てて、水から出て新しい自分になり、神とともに食事をする。
クリスチャンならすぐに理解できます。
これは、バプテスマと聖餐。
諏訪大社における物部氏の儀式御頭祭において、縛られて横になった子供を神官が刀を振り上げ、殺す直前に別の神官が制止し、代わりに鹿をささげます。
これは、明らかにアブラハムのイサク献上。
ちなみに:友人の島茂人氏がよく訪問していた諏訪大社の宮司の娘で貿易会社を経営するKさんによると、両親の間の話題には頻繁に「イスラエルと神社の類似点」が上っていたといいます。
聖書では山羊だが、諏訪大社では鹿。
私は、日本では羊の代わりに鹿が用いられていたのではないかと考えます。
だから、忌部氏(阿波の三木氏)が提供する大嘗祭で着る麁服(アラタエ)は、羊服。
天皇は、羊を着る。
羊=キリストなので、キリストを着る。
「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13・14)
大嘗祭は、天皇がクリスチャンになる儀式。
http://www.millnm.net/qanda4/93cV0UBQDixsI04705.htm
このような状況証拠から、物部氏の宗教はキリスト教であったと考えられます。
2018年9月30日
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