三神論は異端である9
三位一体に関して質問があります。
既存の教理は三つのペルソナをもつ「唯一の神」が存在するとしています。
既存の教理は「父」と「子」と聖霊はいずれも神であられるが、神が三人おられるのではないといいます。
神が三人おられるというと、聖書に書かれてある「神は唯一である」ことと矛盾すると考えるからでしょう。
しかし、論理的に考えて、もし、「父なる神」と「「唯一の神」の父なるペルソナ」が同一であるのならば、三位一体という用語はそのまま三神一体と置き換えてよく、「父なる神」と「「唯一の神」の父なるペルソナ」が異なるのであれば、三位一体そのものが崩壊します。
神は超越者で無限者であられるので三位一体を内的に十全に捉えることは不可能だと思いますが、外的に言葉で理解することはできると思います。神のもっとも根本的な性質である存在について神が人に理解を与えないということはないはずです。神の愛や義が聖書においても人生においても歴史においても啓示され、それを賛美することにより、神は栄光を受けられるのに、そもそも神とは何かについて無理解のままで本当に賛美できるのでしょうか。神の存在、そして彼の不変である栄に満ちた存在のされ方は神の栄光であるので、「神は愛である」や「神は美である」ことについて我々が言葉によって知らされているのなら、神の存在について基本的な理解を持とうとすることは行きすぎでしょうか。神はご自分を「在りて在る者」として啓示されているので、神存在について合理的理解に達することはできると思います。
子が父から永遠において生まれ、かつ永遠において存在されるというのは、時空的感性では把握しきれませんが、超越者同士であるなら、可能であると考えるべきだと思います。また、父は子に対しては依存的であられ、子も父に対して依存的であられ、三位は互いに対して絶対的に依存的であられ、その依存性のうちに、被造物に対して自存しておられ、かえってそれらを無よりご自分の栄光のために存在せしめられたのだと思います。それゆえ、子は存在において父の子であり彼より生まれし者であって、なお被造物とは完全に異なり、存在したまわざりし時はなく、永遠において生ける者であるとすることは正統であると思います。
ところで、もし、神存在における「一神」が契約的なものならば、それは存在論的なものではないはずです。神の似姿たる、夫婦契約においても、彼らは一体ですが、「一体」が人格を持って喋ったり肉において存在するわけではないです。また、「一体」は愛の対象にも、服従の対象にもなりません。私が思いますに、三位一体教理を奇々怪界なものに思わせている主要な原因は、契約的なものである「一神」を存在論的なものとする誤解ではないでしょうか。我々人間は、一人の人に一つの人格が割り当てられており、それ以上でも、それ以下でもありません。この世においては、多重人格なる症状を呈する人たちもいますが、来るべき世の永遠の秩序においては、そのようなことはありません。それなのに、神は永遠において、存在において一でありながら、三つの人格において存在なさるというのは、神の似姿たる人間存在の否定であり、異端ではないでしょうか。
2018年11月22日
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