御言葉を伝えた後の説得は貴重な時間と労力の無駄遣いである


私は、人と議論して御言葉を示したら、後は、相手が何を言おうが無視する。

相手がそれ以上反論してきても、意味がないので見ない。

たとえば、フェイスブック上である人が「クリスチャンは人を裁いてはならない」と言ったので、パウロがエペソで「クリスチャンはすでに復活しており、キリストとともに天の所に座らせられた」と言っているので「キリストとともに裁判官である」と言った。

その人からの反応があるとわかったが、そのページを開いていない。

なぜか。

無駄だから。

御言葉は「最終権威」であり「人を裁く両刃の剣」である。

「聖書にこう書いてあります」と述べたら、それ以上の権威はないのだから、反論しようがない。

もしそれでも反論してきたら、御言葉はその人を切り裂く。

なぜならば、神に逆らったからである。

私は、「最後の手段である御言葉」を語ったので、務めは終わった。

御言葉を語ってから、何か反論する人は、御言葉を権威と思っていないので、滅びるしかない。

滅ぼすのは、私の仕事ではない。

神の仕事である。

時折「ギャー」と激怒する人がいる。

そういう人は犬や豚である。犬や豚に聖なる御言葉を与えてはならない。


聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7・6)

御言葉を語っても「それを足で踏みにじり、向き直る」人は「あなたがたを引き裂く」ので、それ以上相手にしてはならない。

私は異端ではない人には3回、異端の人には1,2度の警告で止めることにしている。

もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マタイ10・14)

分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。(テトス3・10)

御言葉に従おうとしない人に食い下がっても無意味である。

自分の義務は果たしたので、あとは神にお任せする。

クリスチャンが行える裁きは「御言葉を伝えること」だけである。

実際に裁かれるのは神である。

御言葉を伝えた後の説得は、貴重な時間と労力の無駄遣いである。

 

 

2018年12月26日



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