日本の宣教の最大の問題は、「人を恐れること」であった。
日本の社会は、どこでも「人を恐れさせる」傾向が強い。
封建社会の名残だろう。
先輩後輩の関係が社会のいたるところに広がっている。
もちろん、年長者、先輩を敬うことは忘れてはならない。
しかし、日本の社会の場合、それは、偶像礼拝なのだ。
先輩の言うことは絶対だ、みたいな人間関係がいたるところにある。
今日、真理を尊ぶ人は教会にはいられない場合が多い。
なぜならば、教会そのものが神を恐れていないからだ。
私も経験があるが、教会をやめようとするとこう脅かされる。
君、ここを出て、誰が拾ってくれるというのですか。
福音派は、相互に協定を結んでカルテルのようになっている。
だから、一つの教会で追い出されるとか問題を起こすと、その情報は牧師同士を通じて伝わる。
だから、新しい教会にいっても差別されることになる。
これって、なんですか?
神の集団ですか?
なぜ内容を見ない?
もちろん、問題がある牧師や信徒はいます。
異端を持ち込んだり。
教会の秩序をかく乱したりする札付きはいる。
だから、他の教会を追い出された人を簡単に受け入れてはならない。
しかし、いかなる調査もなく「ただ単に、教会を出た」という事実だけで人を差別するのは問題だ。
はっきり言うが、教会を追い出されたから何?
真理を大切にしたために追い出されて何が不都合があるのか。
教会は、世俗思想に汚染されています!
だから、まともなクリスチャンは出る以外にはなくなっている!
これを反省できないならば、福音派全体が神の裁きを受ける。
人間は恐れる対象ではない。
人間を恐れてはならない。
人間は信頼にたるものではない。
日本社会は、その優秀性のゆえに、人間を信頼できるような部分がある。
だから、ごっちゃになっている。
外国のように、道を歩けば詐欺師や泥棒や人殺しにあうような社会ではない。
日本は恵まれている。
しかし、だからといって、人間を手放しに礼賛していいという話ではない。
私は、人間を信頼すべきであると同時に信頼してはならないと思っている。
もし、神の秩序を敬うよりも、人間のそれを敬うような社会があるならば、そんな社会は信用してはならない。
そんな人間王国ならば、出るべきです。
古い集団は、必ず追いかけます。
イスラエルを追いかけたエジプトのように。
「君、ここを出てもいくところはないよ」とか「ここでやっていけないなら、ほかでもやっていけないよ」とか言うでしょう。
しかし、それは悪魔の誘惑。
私たちの人生は、いくつかの学校を卒業しなければならない。
それは、いわゆる制度的な学校ではない。
「社会の場」です。
われわれには、神が備えた学校があって、その学校を卒業する段階になったら、必ず出る以外にはない状況が生まれる。
そして、出ることがわかったら、絶対に振り返ってはならない。
内部の人間がどんなに「戻って来い」といっても。
卒業は神が確定されたことである。
だから、卒業した以上はもとの古巣に戻ることは絶対にしてはならない。
その学校は、人かもしれない。
ある人と交際をしました。
別れました。
それは、学校なのだ。
ある教えを学ぶために神が与えられた学校なのだ。
そこから、あなたは、卒業した。
ならば、復学する必要はまったくない。
この過程は不可逆的である。
もとに戻ることができないもの。
こういう不可逆的な過程の連続なのが、クリスチャンの生涯である。
だから、人間の「情」というものは通用しない。
情に動かされるならば、自分を滅ぼすことになる。
古巣に戻れ、真理よりも人間関係だ、などという人間教はクリスチャンの場合は通用しない。
神は、われわれを誰かと出会わせて、そこから学ばせようとしておられる。
その人から学んだら、その人はもはや過去の人だ。
私は、学生時代、カルヴァンを教えてくれた先輩がいた。
何年かたって会ったが、昔のような人ではなかった。
バルトを信じていた。
もはや彼から得るものはない。
そういうものだ。
昔、多くのことを学んだ人が、今すばらしい人かどうかわからない。
昔は昔。今は今。
自分は神の導きによって変わった。
今の自分にとって必要な人や集団と出会えばよい。
人間に固執してはならないのだ。
だから、冷たく見られるかもしれない。
人間を大切にしていないように見えるかもしれない。
だが、そこがクリスチャンの人生の独特なところだ。
人間を捨てろということではない。
人間はどうでもいい、過去の人はどうでもいいということではない。
自分が今通っている学校において、その前の学校はあまり意味がないということだ。
卒業したならば、もう一度入りなおすことは考えないほうがいい。
それはわなになるから。