称名信仰の復活


称名信仰の復活

YHWHを聖四文字といって、古来人々はその名を呼ぶことを避けてきた。

そのため、これをどう読むのかわからなくなってしまった。

エホバと読むのか、ヤーウェと読むのか、それとも他の読み方があるのか。

今はヤーウェもしくはヤハウェと読むのが正しいとされている。

神学校時代、ハリスのヘブライ語の教科書で勉強した。

この教科書に従うと、ヤーウェと呼ぶべきである。

昨日も神の御名を唱えながら散歩した。

すると、この呼び名に格別な力があると感じることができた。

もちろんこれは私の感じ方なのかもしれない。普遍化はできないかもしれない。

しかし、神の臨在をもっとも感じる呼び名であると感じた。

(2)

神の御名を唱える教会がある。

友人がその教会のメンバーで、一度連れていってもらったが、実に驚いた。

礼拝堂の扉の外と内側ではまったく働く霊の強さが違うのだ。

単なるガラスの張ったアルミサッシのドアである。

礼拝堂に入ると何かぐっとくるものを感じた。

大人数で御名を無数回唱えているので、礼拝堂の壁や床にそれがしみついているような印象であった。

礼拝が始まって一斉に御名を唱える。

自分の腹から口に向かって何か塊のようなものが上ってくるのを感じた。

不思議な体験であった。

(3)

聖書では、弟子たちが「御名を唱える者たち」と呼ばれていたと書かれている。

初代教会の人々は御名を唱えていたのだ。

古代ユダヤ人も御名を唱えていたのだが、アンテオコス・エピファネスが禁止してから唱えることができなくなった。

エピファネスの支配が終わってから禁令が解かれたにもかかわらず、ラビたちが御名を唱えることを禁止したため、この習慣は消えてしまった。

御名を唱えることが復活したのは、イエスからである。

イエスは、ご自身のことを「エゴー・エイミ(我は有る)」と呼ばれた。

これは、「我は有りて在る者なり」という御名の中の、ギリシャ語の「我は有る」である。

だから、イエスは「エフイェー・アシェル・エフイェー(我は有りて在る者なり)」の「エフイェー(我は有る)」と唱えられたと推測できる。

ユダヤ人の宗教指導者たちは、イエスが御名を唱えられたので、「神を冒涜した」と訴えた。


イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8・58)

eipen autoiV o ihsouV amhn amhn legw umin prin abraam genesqai egw eimi (ギリシャ語―ただし英文字表記)

ここで、「わたしはいる」が”egw eimi(エゴー・エイミ)”である。

ユダヤ人指導者たちは、この御名を聞き冒涜と判断して「石を拾ってイエスに投げつけた」(59節)。

イエスが御名を唱えられたので、弟子たちも唱えるようになった。

「…彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」

これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」(使徒9・14、21)

「御名を呼ぶ者」とは「御名を唱える者」である。呼ぶも唱えるもギリシャ語は同じ言葉である。

(4)

現代において、御名を唱える習慣は、クリスチャンの間で消えてしまった。

今のクリスチャンは「御名を呼ぶ者たち」ではなくなった。

聖書でもヤーウェと訳すべき箇所は「主」と置き換えられている。

聖書から御名が消されてしまった。

これもサタンの謀略であろう。

サタンはクリスチャンの口に御名がのぼることを禁止したいのだ。

なぜならば、御名は臨在だから。

神の幕屋や神殿は、「御名の住まい」である。

ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。
あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。
主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。
主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。
ただ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。
あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。
あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。
(申命記12・5、11、14・23、16・2、6、11、26・2)

神の幕屋と神殿は「主が御名を住まわせるために選ぶ場所」である。

新約時代において神殿はクリスチャンの体であるから、われわれの体の中に御名が住んでおられる。

だから御名を唱えると、自分の体に御名が住んでおられることがはっきりわかるのである。

私が、御名を唱える教会に行って、自分の腹から口に上ってきたと感じたあの塊のようなものは主の臨在であると思う。

クリスチャンは、御名の重要性を忘れたため、このような体験をしなくなった。

(5)

不思議なことに日本人は御名を唱えてきたように思う。

神社の前で弥栄(いやさか)と唱える。

弥栄=ヤエイ=ヤーウェではないだろうか。

弥栄は「ますます栄えること」を意味するという。

八坂神社は弥栄神社と表記する場合もある。

八坂=ヤーウェなのだろう。

もともと日本人はヤーウェの御名を唱えていたのだろう。

ヨーロッパに広まったキリスト教では消えてしまった習慣が、日本において生きていた。

日本には、初代教会の弟子直系の信仰が伝わっていたのではないか。

(6)

アメリカでは、47%のクリスチャンが40年以内にキリストが再臨すると信じている。

http://p.tl/VbIO

アメリカのキリスト教は、すっかりイルミナティに騙されてしまった。

日本では、イルミナティに騙されないキリスト教しか繁栄できないと思う。

イエズス会の伝道が失敗したように、日本人には、イルミナティ由来のキリスト教は広まらないのだ。

聖書の復活(ビザンチン写本の聖書)だけではなく、称名信仰の復活も日本において実現させなければならない。

 

 

2013年12月5日



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