ただ御手に委ねるだけである
私は、長年の経験から、「悔い改め」を求められているときは、悔い改めるべきだと考えている。
何らかの出来事が起きた場合、それは、神が許容しておられるからである。
そして、自分の中の何かを取り扱っておられる。
もし自分がそれを素直に悔い改めればいいが、悔い改めることがなければ、裁きに直結する。
なぜこういう問題が起きたのか。
それは、長年あいまいにしてきた問題を処理する時が来たからだ。
長い間放置していた虫歯が、腫れてどうしようもなくなったようなものだ。
丁度いいときに神はメスを入れられる。
しかし、これすらも拒否するならば、それは、傲慢のなせるわざであり、それは、その人がクリスチャンではないということを示している。
つまり、生まれ変わっていなかったのである。
クリスチャン面をしていただけで、内面が変わっていなかった。
本当のクリスチャンは、最終的にイエスのもとに帰ってくる。
しかし、偽のクリスチャンは、自分のプライドを最優先して、けっして帰ってこない。
あのユダのようなものである。
最後は自殺してしまった。
神に選ばれておらず、クリスチャンの仮面をつけていたノンクリスチャンは、真実が示されても悔い改めない。
我を通す。
だから「泣き崩れる悔い改め」などというものはない。
あったとしても「パフォーマンス」である。
「プライドなんてどうでもいいです!主よ、罪深い私をお赦しください!」なんていう叫びもない。
罪を指摘した人を恨み続ける。
私は、こういう多くの人々を見てきたが、最後は悲惨である。
私からは何も言わない。
ただ御手に委ねるだけである。
2014年7月31日
ホーム