本当のクリスチャンの祈り



だから、こう祈りなさい。

『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

(マタイ6・9-10)

(1)

自分にとって何が第一になっているか。

本当のクリスチャンは、神の栄光である。

主の祈りのように、祈りにおいて「御名があがめられますように」が最初に来る。

本当のクリスチャンの人生の目標は、聖書の神が世界を支配し、世界のすべての民族、人々が、神をあがめ、ほめたたえることである。

それ以外の栄光がかすんでしまうことを願う。

本当のクリスチャンは、神の幸せを第一に求める。

神が喜び、幸せになってほしいと願う。

偽クリスチャンは、自分の欲望がかなうことをまず求める。

関心があるのは、もっぱら自分のことである。

教勢の拡大、勲章、金銭、影響力、権力。。。

こういったものをただひたすらに求める。

こういった人の人生は無益である。

人生という一回限りのものを無駄なものに使ってきた。

義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。(ローマ3・10-12)

無益な人生とは、義を行わず、悟らず、神を求めず、迷い出て、善をおこなわない人生である。

たしかに苦労をしたかもしれない。職業的業績を残したかもしれない。

名誉を得たかもしれない。権力を得たかもしれない。

金持ちになったかもしれない。

しかし、神の栄光を第一に求めない人生は無益なのである。

積み上げた業績も名誉も権力も金銭も全部無駄である。

死んでしまえば、全部消えてしまう。

歴史に名を遺したとしてもそれが何なのだろうか。

後代の多くの人の口に上り、思い出されるかもしれない。

しかし、死んだらいったいそれが何になるのか。

われわれは、神が素晴らしいお方であり、褒め称えられるべきお方であるかを一生をかけて示すべきだ。

人々が神を誤解していたら、それをただし、正しい理解を提供する。

神の主権が脅かされているならば、それを回復するために戦う。

そういった働きをしてこそ、人生は意味を持つ。

「わが人生に一点の悔いもない」と言えるのは、神の栄光のために戦った人だけだ。

自分の頭で考えだした教えに基づく教会、教団、宣教団体を作って、世界的に影響力を持ったとしても、何にもならない。

われわれは、本社から派遣された支店長のようなものだ。

本社の意向に沿わないことを勝手にやっても、評価されるわけがない。

常に、神にとって利益とはなにか、を考え行動すること。

すなわち、神を愛するということである。

偽クリスチャンは、聖霊がうちにいないため、こういった愛がない。

神への愛は、ただ聖霊を受けた人にだけ存在する。

逆に言えば、聖霊が与えられたならば、自然に神を愛するようになる。

神の栄光をひたすら求めるようになる。

そのために自分のすべてを使いつくそうとする。

(2)

神を愛する人は、当然、神の国を求める。

神の国とは、神が第一とされ、神の御心にしたがってすべてが運営される国である。

地上において、神の御心にかなった政治・経済・教育・文化が行われることを喜ぶ。

神の法に基づいてあらゆることが運営されるようになることを喜ぶ。

偽クリスチャンが神の法を嫌うのは、結局、神の国を求めていないからであり、神への愛がないからである。

本当のクリスチャンは、自分自身においても、自分以外においても、神の御心が完全に行われることをひたすらに求める。

そして、それが実現しないと悲しむ。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5・4)

罪を犯す自分の実情を嘆く。

こんな自分はいやだと、叫ぶ。

そして、社会に悪がはびこり、社会が堕落することを悲しむ。

偽クリスチャンは、自分の利益を中心に行動するから、自分についてだけではなく、社会についても無頓着である。

社会正義が犯されることに憤慨しない。

イルミナティが勢力を持ってもどうでもいい。

人々が戦争に巻き込まれて殺されてもどうでもいい。

社会正義の実現のもっとも有効な方法は、本当のクリスチャンが増えること以外ではない。

神の愛に基づいて行動し、私利私欲に走らないので、正しい政治が行える。

ブッシュ元大統領のような偽クリスチャンは、間違った情報によってイラクの人々が虐殺されたことに反省しない。

ブッシュに投票したクリスチャンは、偽クリスチャンであるから、自分が支持したことによって、人がたくさん死んだことに後悔しない。

これがアメリカのキリスト教である。

彼らが神を信じても意味はない。

6000万人いようが何の意味もない。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5・13)

アメリカのキリスト教は無益になったので、踏みつけられるだけだ。

(3)

本当のクリスチャンは、地上において御心が実現することを願う。

なぜならば、自分をすべて神に差し出したからである。

「あなたの計画にしたがって私を用いてください」と祈っているから。

全的献身以外は、礼拝ではない。

旧約時代、捧げた動物は自分の身代わりであり、その動物の肉を祭壇の上ですべて焼いて煙にすることは、自分を完全に神にささげたことを示している。

全焼のいけにえを捧げない限り礼拝は実現しなかった。

だから、単なる口先で礼拝しても意味がないのだ。

「御心が天で行われるように地上でも行われますように」との祈りをささげている人が「地上なんてどうでもいい。まもなく再臨があるから」とはけっして言わない。

切迫再臨待望は、心の中で、「私が天国に携挙されればそれでいいのです」と考えがあるから生き残っている教理である。

神の御心は「地上でも御心が行われるように」である。

悪魔勢力が拡大しているならば、それを押しとどめるために祈らねばならない。

地上において御心が実現する頻度が下がっているならば、必死になってそれをもとに戻し、さらに前進させようとする。

こういう熱意がない信仰は、信仰ではないのだ。

真の信仰者は、中国において共産主義者が横暴をふるって、弱者をいじめているのを見て、腹が立ってしょうがなくなる。

中国共産党の支配を終わらせるために、全力を尽くして祈る。

「天においてあなたの御心が行われているように、中国においても行われますように」と祈る。

神と心が一致しているならば、必ず悪人の支配を終わらせるために祈り、行動するはずだ。

ミレニアムの会員のみなさまが祈ってくださったために、一時はどうなるかと思ったが、中国の侵略に歯止めがかかった。

さらに祈って彼らの衰退を促さねばならない。

悪人の計画が全部、ことごとく挫折するために祈りましょう。

 

 

2014年12月24日



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