幼児洗礼・幼児陪餐を拒否する親は子供を呪っている2
幼児洗礼・幼児陪餐を拒否する親の救済観は間違っている。
彼らは、「救いは知的な理解が条件である」と信じている。
たしかに、聖書では「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」とある。
しかし、聖書は同時に次のように教えている。
「まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神はエサウを滅びに、ヤコブを救いに予定された」と。
救いは、神の一方的な恵みである。
救いに定められている幼児と、滅びに定められている幼児とがいる。
知的・理性的に信仰を選択できない状態で死亡しても、救いに選ばれている幼児は救われ、選ばれていない幼児は滅びる。
選びが知的・理性的選択の土台である。
つまり、それらの幼児が仮に生き延びて成人に達したとしても、救いに選ばれている幼児は信仰を告白し、バプテスマを受けるし、選ばれていない幼児は信仰を告白せず、バプテスマも受けない。
「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」。(ローマ9・16)
「それならば、知的・理性的選択にいったいいかなる意味があるのだろうか。宣教にいかなる意味があるのだろうか。選ばれている人ならば、福音を聞かなくても救われるのだろうから」という人がいるかもしれない。
「信仰は聞くことに始まる」(ローマ10:14〜21)のである。
成人の場合、福音を聞いて、心で信じ、口で告白しなければ救われない。
だから、まだ福音がパレスチナの地にとどまっていた時代であっても、だれかアジアに神が選ばれた人がいたならば、神は不思議な方法でその人のもとに伝道者を派遣されたことだろう。
今でも、信じるように予定された人がいるならば、そこに福音を語る人が送られる。
しかし、理性のない幼児の場合、
(1)親が契約の中にいる場合、その契約的恵みが適用される。
つまり、親が神の家族の中にいる場合、その子もその家族の中に生まれるので、親と同じ恵みを受ける。つまり、救われる。
ザカリヤの子ヨハネは、胎の中にいるときにすでに聖霊に満ちていた。
彼は…母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており (ルカ1・15)
2016年8月23日
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