三神論は異端である20
なぜキリスト教は「神は存在論的に一人」と考えるようになったのか。
それはおそらく「契約的に一人」を低く見ているからであろう。
「え?神は存在論的に一人ではない?法人として一人?それは神の冒涜だ」と感じる人は、神が「契約的一人」をいかに重要と考えておられるか知らない。
イエスが十字架にかかられたのは「契約的一人」を重視されたからである。
父、子、聖霊は、互いに同格、同質、同永遠、同権威である。
しかし、契約的に上下関係がある。
夫も妻も命の価値は同じである。
しかし、契約的に妻は夫に従属する。
「契約的な上下関係だからたいしたことはない」と言う人は、聖書的な考え方をしていない。
イエスは「御父と自分は同格であるが、契約的に御父に従属している。だから、御父の命令に聞き従おう」とされた。
そして、「選ばれた人々を救うために、十字架にかかり彼らの罪を背負って身代わりに処刑されなさい」という御父の命令に従われた。
一人の人の刑罰でも、恐ろしい苦痛である。
永遠の刑罰なのだから。
それを、無数の人々の刑罰を身代わりに受けたのである。
そのような想像だにできない苦しみを「御父の命令だから」という理由でご自身の身に受けられた。
神にとって「契約」がいかに重要であるのか、これでおわかりだろう。
「姦淫するな」という戒めは、「契約的関係」「契約的一体」を軽視するな、と教えている。
「夫婦は存在論的な一体ではなく、契約的な一体でしょう。だからそんなに大切ではない」と言うべきではない。
イエスが契約を重視し、十字架につかれたように、われわれも、契約を「自分の命をかけるほどに」重視しなければならない。
2018年11月30日
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