第2の恵みは組織崇拝を目的にしている
富井様はすでに聖霊で満たされているのですか?
わたしは神の時を待っております。
1.
「聖霊に満たされる」ことは、「聖霊に完全にコントロールされること」を意味するので、自分の意思によって随時可能です。
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペ5・18)
ここでは、「酒に酔う」と「御霊に満たされる」が対比されています。
「酒に酔う」は「酒にコントロールされる」ことですから、 「御霊に満たされる」は「御霊にコントロールされる」ことを意味します。
肉の人は「自分の肉の性質のとおりに」 行動しますが、御霊の人は「御霊の性質のとおりに」行動します。
肉はアダムにおいて堕落しており、ろくなことを考えませんし、行いません。
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8・6-7)
「死刑はよくない」と唱える人々が、 なぜ「計画的に人を殺す者を殺せ」と命令する律法に反してそのように唱えるかというと、「肉の思い」に支配されているため「神の律法に服従できない」からです。
つまり、「御霊に満たされる」ことは、待って得られるのではなく、意思によって「御霊の思いに」従おうとし、「聖書のとおりに考え、行動しよう」と思うことによって可能なのです。
私たちが「ディスペンセーション主義は悪魔の教えである」と唱えるときに「そうじゃない」と逆上する人は、なぜそうしているかというと、「肉の思い」に支配されているからであり、「御霊の思い」に支配されていないからです。
御霊の思いに支配されていれば、そのような反応は返ってきません。
彼らはどうしても「終末は近い」と信じたいのです。聖書に逆らってもそう信じたいのです。
こういう人は、自分の意思を変えて自覚的に「聖書の教えのほうを採用しよう」とすれば、御霊に支配されるようになります。
2.
聖書は、救いの恵みは一つしかないと教えています。それは、救われてクリスチャンになるときに必ず与えられる御霊です。
それ以外の「第2の恵み」はありません。
聖化、聖霊の満たしのようなものは、御霊が与えられた者全員に必ず与えられる恵みであって、「クリスチャン」と「○○の体験をしたクリスチャン」を分ける基準ではありません。
「第2の恵み」なるものは、教会が「他の教会との区別化」を図るために作りだした「偽の教え」です。
それは「組織崇拝」のためであり、不純な試みです。
2018年9月22日
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