余生は祝福が100倍になるチャンスである


あるクリスチャンの親が、献身して神学校に行った子供について「子供を奪われた気分だ」と言った。

何のために子育てをしたのか。

自分の野心を満足させるため?

それは、子供の私物化である。

クリスチャンの両親は、子供を神から預かっているのである。

神の有能な戦士として働くように訓練せよと、任されているのである。

われわれは、人生の終わりに、「清算式」が待っている。

どのように自分の財産を利用したか。

一つ一つ、チェックされる。

人生に総決算があると信じていない人は、究極の愚か者である。

死んでからでは遅い。

神の御前に立たされて、「さあ、お前の人生に評価を下そう」と言われたときに「ああ、神のために最善を尽くしておけばよかった」と嘆いても遅い。

どうしても我慢ができないときに、パチンコ屋のトイレを借りることがある。

無料で利用したら悪いので、出ていくときに、自販機で水を買って出てくる。

パチンコ屋で、余生をつぶしている老人を見ると、哀れに思える。

時間があるんでしょ?

どうして、残りの時間を永遠の報いを受けるための活動に専念しないの?

時間もお金もあるなら、たくさんやるべきことがあるでしょう。

できるだけ神の国の拡大のために活動する。祈る。・・・

豊かな報いを「永遠に」受け取れるチャンスじゃないか!


そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(ルカ16・9-12)

「不正の富」は「まことの富」の反対語である。

つまり、それは「まことではない富」である。

人生でわれわれが受ける富は、「まことではない富」である。

それは「他人のもの」であり、「あなたがたのもの」ではない。

それは「小さい事」であり、「大きい事」ではない。

「永遠の住まい」でわれわれが受けるのは、実物である。

この世では、実物を模倣した「パクリ」しか受けられない。

われわれの現世の資産は、すべて神のものであり、われわれのものではない。

しかし、「永遠の住まい」では、自分のものが与えられる。

それは、小さくはなく、大きなものである。

イエスは「100倍を受けないものはない」と言われたので、われわれが神のために使ったお金や資産、子供、会社などは、100倍となって返ってくる。

その大きな資産を「永遠に」所有できる。

今、自分の時間を神の国のために使うならば、それは、100倍に増えて、永遠に所有できるようになる。

余生は、祝福が100倍になるチャンス。

なぜパチンコなどに使うのか。

 

 

2017年2月16日



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