真理を理解できるのは神に選ばれたから
聖書全体をバランスよく理解しなければ信仰したことにはなりません。だから、私は、大きく考えるようにしています。
「もしキリストが十字架で人のために死なれたのであれば、神がすべてのことをご自身のためになさるという自存性はどうなるのだろうか。神は被造物を必要としない。あ、そうか。キリストが十字架にかかられたのも、最終的にはご自身のためなのだ。」と私は考えます。
しかし、人間中心のキリスト教で人々を引き付けてきたため、教会には、本当に生まれ変わっていない人が多くいます。
彼らにとって「すべては神のため?キリストの十字架も神のため?神は永遠の昔に救われる人と滅びる人を予定された?とんでもない!」という反応をします。
これが肉の人の特徴。つまり、人間中心。
私は、こういう人々をどうでもいいと考えています。彼らは霊的に生まれ変わっていないので、霊的なことがわからない。だから、聖書の明確な教理を拒絶する。
私は、霊的感性のある人しか付き合いたくないので、無視します。
だから、インターネットで何を言われようがどうでもいい。滅びる人々は滅びる人々の間で好き勝手やればいい。霊的な理解力があるかないかは選びであって、人間の側ではどうしようもない。放置が一番。
三位一体論について、神存在について、などいろんな議論を持ち込む人がいますが、言っても無駄なので、返事をしません。
人間の間で私がどのような評価をされようがどうでもいい。そういう人々に対応することは時間の無駄です。
要するに、重要なのは、神が理解力のある人々を集めて、その人々を通じて神の国を拡大することです。広く理解力のない人にも気に入られて・・・みたいな、教会成長学の手法は無駄であるだけではなく、有害。世俗に合わせることになるので。
「それなら、いつまでたっても日本人はクリスチャンにならないですよ。」
日本人がクリスチャンになるかならないかは、こちらの努力ではどうしようもない。
神の選びですから。
われわれの側では、相手に躓きを与えない、わかりやすく説明する、などの工夫は必要ですが、受け入れるかどうかまでは、われわれの仕事ではない。
神は時が来れば、日本人をクリスチャンにするでしょう。
時期や方法は、われわれには関係のないことです。
神の主権。
われわれにあるのは、伝える義務だけ。
救われる人は、どんな障害があっても救われる。救われない人は、たとえクリスチャンの偉人に囲まれても救われない。何か文句をつけて、逃げようとするから、誰が伝道してもむり。
何かを理解したならば、それは、選びだからです。クリスチャンにも理解の段階があるのは、選びの違いです。人数が多いか少ないかは、真理であるかどうかと無関係。聖書にしたがっているかどうかだけが重要。そう理解しています。
2015年8月13日
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