体験重視から、神の法重視へ


1.

クリスチャンになることの最大の利点は、現実を誤りなく認識できることにある。

「現世は宝を蓄えるにふさわしくない」という現実を認識できるので、現世に余計な期待を抱かない。

GHQがやってきて日本の国力を奪うために日本人に「幸福追求主義」を吹き込んだ。

「お国のために」「天皇陛下のために」という利他主義を捨てさせるために、個人主義を吹き込んだ。

この世界は「幸福を追求する人を失望させる」世界である。

「自分の幸せが問題であって、隣人の利益や国益なんてどうでもいい」という人間が、幸せになれるようにはできていない。

神は現世を「虫と錆がつく」世界としてお造りになった。

個人の幸福追求の努力は、無数の「負の作用」によって挫折するようにできている。

食べ物は腐敗し、鉄には錆がつき、金庫は破られ、力と健康は年齢とともに失われ、ついに死に至る。

おカネを稼いで、立派な家に住み、最新の車やコンピュータを手に入れ、美人の奥さんをもらっても、「それが何?」である。

フェラーリに乗っていて快を感じているのは本人だけで、他人からすればどうでもいい話である。

天皇から勲章をもらって悦に入っているのは自分だけ。

学歴や肩書きをひけらかす人は嫌われる。

これらを得ようと努力する人は、「それが自分を幸せにしてくれる」という妄想の中にいる。

神が、現世を「幸いを得るための時期」として創造されなかったのだから仕方がない。

神は、アダムとエバに「地を従えよ」と命令された。

現世は「神の国建設の場」なのである。

苦労して神の支配を拡大する場として世界は造られたのである。

この大きな文脈がある限り、個人の幸福追求の努力は「ことごとく」不発に終わる。

イエスはこの文脈を理解し、この地上においてご自身の幸いを求めず、御父に与えられた使命を遂行することだけを求められた。


それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26・39)

栄光と幸いは、その後に与えられると信じて忍耐された。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12・2)

聖書的クリスチャンは、世界の現実を的確に把握できる。

現世において青い鳥を追い求めない。

現世で受けるのは「はずかしめ」と「十字架」であり、来世で受けるのは「喜び」と、イエスとともに「神の御座の右に着座」することであると理解している。

2.

私は、信仰の初期のころにあまりにも大きな栄光と喜びを受けたために、自分にとって満足のハードルが上がってしまい、その後の信仰生活において大いに苦しんだ。

若いころ、再生の恵みを受け、天国の歓喜を味わってしまったのだ。

そこが水準となってしまったので、後の「普通の状態」に満足できなくなってしまった。

「あのときの自分はどこに行ってしまったのか」「今の喜びの低さは、何か自分に原因があるに違いない」と疑ってきた。

現状を受け入れることができるようになったのは、かなり後になってからである。

1970年代に異次元体験をしたが、それは1980年ごろに消えた。

「クリスチャンになることは、天国の歓喜の中にいること」という意識があったために、1980年ごろ以降ずっと「あそこに帰らなければならない」という強迫観念に囚われていた。

その後も、何度も異次元体験をし、天国を垣間見たが、1970年代のそれと比べると「不発の打揚花火」のようなものであった。

2000年代に入ってからは、体験に依存するのをやめた。

「この世は、歓喜を求めるべき時代ではない」と考えるようになった。

ようやく信仰にある自立を求めるようになった。

「歓喜ではなく、人間に依存しない自立した信仰」を求める正常な精神状態になった。

リバイバル依存症は、パチンコ依存症のようなものである。

リバイバルを求める人は、「あのときの状態をもう一度!」と、パチンコから抜け出せない人と似ている。

TVのパチンコ依存症に関する番組によると、パチンコ依存症の人は、出玉が連続して出る状態になると脳内に何かの物質が流れて恍惚状態になるそうである。

それがアル中と同じように依存症を作り出すと。

こういう「異常状態への回帰」を求める精神は、成熟した人格を作らない。

まともな大人になるには「あれは一時期のこと」と割り切るべきである。

「自立した、現実的な性格」を求めるようにならない限り、クリスチャンは「ドミニオン・マン(神の国建設人)」にはなれない。

この「自立した、現実的な性格」は、責任をもって仕事に取り組む中で形成される。

顧客が満足する成果物を提出できるまで、仕事に対して最後まで責任を持つという経験を繰り返し、実績を築き上げる以外には、聖書的なクリスチャンにはなれないと思う。

私は、R・J・ラッシュドゥーニーの著作を通じて、真のクリスチャンの姿を学ぶことができた。

体験重視から、神の法重視へと切り替えることによって、真のキリスト教を学んだと言える。

 

 

2019年4月7日



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