ピーター・ワグナーの再建主義の著作は買い占められているのでは?3


福音派がいくら「私たちは聖書信仰です!」と叫んでも、前千年王国説(プレ・ミレ)を信じている限り、むなしい独白でしかない。

「聖書は、直接の読者が理解できないことは書いていない」というのは、福音派の牧師から学んだ真理である。

ヨハネ黙示録の直接の読者は、小アジア半島にあった7つの教会のクリスチャンたちである。

彼らにとって「666はヒトラーだ!」とわかるはずがない。

666は、彼らが理解できる人物であったはずである。

つまり、それはローマ皇帝ネロである。

カエサル・ネロをヘブル語で記し、その文字に割り当てられている数字を合算すると666になる。

616と記されている写本があるが、それは、ラテン語で記し、それに割り当てられている数字を足した場合616になるからである。


自由主義神学の高等批評による聖書学では、ローマ皇帝ネロを指すという説が最も支持を得ている。即ち、皇帝ネロ(Nero Caesar)のギリシア語表記(Neron Kaisar)をヘブライ文字に置き換え(Nrwn Ksr)、これを数値化し(ゲマトリア)、その和が666になるというもの。ヘブライ文字はギリシア文字のように、それぞれの文字が数値を持っており、これによって数記が可能である。この説は、直前の皇帝崇拝らしき記述とも、意味的に整合する(一説によれば、経済の比喩ともいわれる)。写本によっては、獣の数字は666でなく、616と記されているものもある(詳細は後述)。この場合は、ギリシア語風の「ネロン」ではなく、本来のラテン語発音の「ネロ」(Nrw Ksr)と発音を正したものと解釈できる。(Wikipedia―獣の数字)

「そんな、ネロだけしか意味しないとすれば、聖書が現代の我々に適用できる書物ではないということになる」と反論する人がいる。

「適用」の意味を勘違いしている。

聖書は「直接の読者に向けて書かれた書物であっても、そこから教訓を学ぶことができる」という意味において「適用できる」のである。

「適用できるためには、直接的に我々について記されていると解釈すべきだ」という解釈の方法は、異端である。

つまり「マタイ24章は我々の未来に関する記述である」という前提で読み込むことは、異端の解釈の方法である。

英語の異端heresyの語源は、ギリシャ語haireomaiであり、それは「自分のために取る、選択する」という意味である。

異端者にとって「聖書において著者である神が何を言おうとしているのか」は重要なのではない。

「自分のために選択しよう」という気持ちが強いので、文脈や歴史的背景をすっ飛ばす。

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。(2ペテロ1・20)

「私的解釈」は、聖書の文言を変えるのと同じくらい重たい罪である。

聖書に関しては、通常の書物に接する接し方ではだめ。

「こういうことを言っていてほしい」という気持ちで読んではだめ。

「神は何をおっしゃりたいのか」と常に自分を低くし、しもべとして接する必要がある。

 

 

2017年12月13日



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