差別は不可避である
差別を悪い概念ととらえるのは聖書的ではない。
聖書では、差別が奨励されている。
人種差別もある。
「カナン人と結婚してはならない」と。
なぜか。
カナン人は、あまりにも堕落しすぎていて、結婚を通じてイスラエルが堕落にひきずり込まれるから。
もし差別そのものが悪いことであるならば、善悪の区別すら悪である。
共産主義の中国ではカンニングが罪であるか議論が起きたことがある。
「所有物の公有化」こそが共産主義の眼目だから。
他人のもっている知識を自分が共有してなにがわるいと。
神は「他人のものを盗むな」「他人のものをほしがるな」と十戒で命令された。
資本主義の発展、物質的な裕福さへの道は、「自分の所有物と他人の所有物の区別」と「合意に基づかない他人の所有物の所有権の自分への移転の禁止」に基づいている。
自分と他人の所有物の区別も差別である。
「いや、それは単なる区別であって、差別ではない」というかもしれない。
個人商店は、差別をしないとやっていけない。
個人商店が客の間に差別をつけなければ、つぶれてしまう。
たとえば、スーパー銭湯で入れ墨禁止するのは、普通の人々が恐れて寄り付かなくなるからだ。
個人商店としては、誰でも入場可能にしたい。
なぜならば、それだけ実入りがよくなるから。
しかし、ある特定の人々がいると、客数が減るならば、彼らを差別せざるをえない。
ある特定の肌の色や服装の人々が、犯罪など反社会的行動を犯す傾向があり、彼らに悪いイメージがついてしまっている場合、それらの人々が差別されるのは避けられない。
いくら法律で規制しても、商店側では、入場禁止にしたい。
私はしかるべき理由のない人種差別、しかるべき理由のない宗教差別がよいと言っているわけではない。
しかし、なんらかの価値や文化を維持し、生み出す場合、差別化は避けられない。
「同性愛は悪だ」と差別せざるをえない。
なぜならば、聖書にそう書いてあるからであるし、また、同性愛は倫理的に間違っていると考えるからでもある。
差別禁止が進むスウェーデンで、同性愛を罪とした牧師が裁判で訴えられた。
https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%85ke_Green
もしこの裁判で牧師が負ければ、スウェーデンの社会は、「反同性愛者を差別した」ということになる。
価値判断とは、差別化のことである。
学生に成績をつけるのも差別化。
オリンピックで競争させるのも差別化。
差別そのものを悪とみれば、文化は消滅する。
人々は、最小公倍数の低いところで平均化される。
抜きんでた才能は評価されない。
その才能を生かして儲けたお金には累進課税により多額の税金がかかり、没収される。
差別を禁止すると、結局、逆に差別が増えるだけだ。
なぜならば、正当に稼いだお金が没収されるからだ。
差別を嫌う社会では、努力や才能が否定される。
結局、そのような才能や努力の人をつぶす社会からは優秀な人々が抜け出して、自分を評価してくれる社会に移住する。
最終的に、社会の間で差別化が進み、差別を禁止した社会は生き残れず淘汰される。
差別は不可避である。
2016年8月19日
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