金銭において失敗したら終わりなのである2


1.

献金をしてくださるかたには、いつも感謝以外ありません。

前の文章は特定の誰かに述べたものではありません。

一般論です。

すべての律法と同様、十分の一も、「契約の民であるならば当然捧げるべきもの」であり、悔い改めつつ努力する目標のようなものです。

たとえば、殺人を平気で犯すような人は、いくらクリスチャンであるといっても、救われないように、十分の一を無視するような人が救われるわけがありません。

永遠の昔に選ばれている人であるならば、聖書を絶対基準として受け入れるはずなので、律法を守ろうと努力するはずです。

これによって予定されていたかどうかがわかります。

「行いによらずに、選びによって救われる」というセーフティネットが敷かれているからこそ、神の法の前に従順になるはずです。

セーフティネットが敷かれているにもかかわらず、律法を意図的に破り続けるというのは、絶対にありません。

「モーセの律法を無視する人は、あわれみを受けることなく処刑されます」とパウロは述べています。


だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。(ヘブル10・28)

律法への意図的無視・反抗は、教会戒規の対象となるべきです。

2.

「旧約聖書においては、厳しい律法があったが、新約聖書ではゆるくなった、だから、現在十分の一の律法は緩和された」、というのはディスペンセーショナリズムの教えであり、間違いです。

神は変わることがないお方なので、義の基準が変化することはありません。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。…天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。(マタイ5・17-18)

「十分の一法」は、「廃棄されず」「一点一画でもすたれていない」。

イエスが律法をすべて成就し、身代わりに処刑されたので、それを守れなかった場合の処罰は回避できます。

しかし、それは、「イエスを主として受け入れる人」の場合だけ。

律法遵守の失敗によって受けるべき刑罰を免除されるのは、イエスの主権を認めている人だけであり、イエスの主権を認めていない人は免除されません。

律法そのもの、神の基準そのものを拒絶・無視・軽視する人は、「イエスを主として受け入れていない人」なので、救われることは絶対にありません。

3.

そのため、本当のクリスチャンは、十分の一を神にお返しするはずであり、それができないと開き直る場合には、契約外の人、異邦人、ノンクリスチャンとして扱う以外にありません。

私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも…偶像を礼拝する者…略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。(1コリント5・11)

神の基準の遵守の意図的な違反、無視、軽視は、「偶像礼拝」であり、十分の一の不履行は、神からの「略奪」なので、教会戒規に値します。

人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。(マラキ3・8)

4.

十分の一を履行すると、逆に経済的に祝福されます。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3・10)

ここで恵みは「雨」として描かれています。

「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」。

雨は、経済的祝福の象徴です。

十分の一を怠ることによって、呪いがかかり、せっかく今にも降り始めようとしている雨が降らなくなる。

あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。(マラキ3・9)

人のものを盗んでも呪われますが、「わたしのものを盗」むことによって、比較にならないほどの呪いを受けます。

経済が倫理と密接に関係しているのは、韓国や中国を見れば明らかです。

日本に対するいわれのない非難を繰り返し、日本を引きずり降ろそうとし、自らを反省しないので、せっかく経済大国になりかかったのに、振り出しに戻りつつある。

わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。―万軍の主は仰せられる―(マラキ3・5)

「わたしは、さばきのため、ためらうことなく証人となり、わたしを恐れない者たちに、向かう」

神を恐れず、義の基準を無視するような人には、神が近づいてきて、訴訟を起こされる。

人は、神に訴えられ、神ご自身がその犯罪の証人となり、処罰される。

逆に、神の法を守ろうと努力する人には祝福の雨が降り続ける。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(2コリント9・7)

5.

契約の民は、カナン人(悪魔崇拝者)の全財産を相続する権利があります。

神は契約の民に世界を支配させようと永遠の昔に計画されました。

本来、そのような経済的な強者となるための広い道が神によって備えられています。

それを止めているのは、悪魔であり、クリスチャンが裕福にならないように策略を巡らします。

カナン人が作ったディスペンセーショナリズムという異端は、神の法を無視させることによって、クリスチャンが呪いをこうむるように画策してきました。

そのため「新約時代になれば、十分の一は基準ではない」と考えるように導かれてきた。

これは、罠です。

十分の一は、契約の民を苦しめるための法律ではなく、逆に祝福されるためのものです。

 

 

2016年4月2日



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