オーバン・アヴェニュー神学
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聖書的キリスト教
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契約は存在論的三位一体の位格の間の関係を基礎として築き上げられる関係である。
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契約は協定である。恵みの契約は、贖いの契約に根差している(pactumsalutis)。
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堕落以前アダムは、恵みの契約の下にいた。
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堕落以前、アダムは業の契約の下にいた。
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堕落後、神は、義と認められるために神の法への部分的な服従を要求された。この部分的な服従は、忠実なクリスチャンたちによって成就され、結果として最終的義認に至る。
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堕落後、神は、人が義と認められるためには、思いと言葉と行いにおいて神の法への完全かつ永遠の服従を要求される。この完全かつ永遠の服従はイエス・キリストによって成就し、罪人である信者たちに転嫁される。
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イエスの罪なき人生は、御民が従うための忠実の模範にすぎない。
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主の罪なき人生は、模範であるだけではなく、業の契約の成就でもある。業の契約の成就は、罪人である信者が神の御前に義と認められるために必要である。
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クリスチャンは、信仰と忠実(つまり、個人的な服従を貫くこと)によって義と認められる。
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クリスチャンは、律法の行いとは別に、信仰だけで義と認められる。
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最終的な義認を得るには、信仰と服従が必要である。信仰は内省的である。それは、キリストの忠実と信者のそれに分けられる。服従は、義認の手段の一つである。
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信仰は、キリストとキリストが達成された贖いを手に入れるための唯一の手段である。信仰は、外省的である。服従は義認の結果生まれるものである。
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信仰と服従は同じものである。信仰は複雑であり、信仰の果実を含む。
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服従は真の信仰から流れ出、信仰と区別できる。信仰は単純である。
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善行または契約的忠実は、信者の最終義認において重要な役割を演じる。
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信者の善行は、罪によって汚れており、功徳を生み出すものではなく、もっぱら、救いをもたらすのは信仰であるという現実を示すことしかしない。
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パウロが義認に関して律法の業を非難したのは、もっぱら儀式律法、つまり、ユダヤ人であることを示す識別符に関してである。儀式律法は、契約から異邦人を締め出す。
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パウロが義認に関して律法の業を非難したのは、律法全体―つまり、儀式律法と道徳律法―についてである。伝統的なプロテスタントの律法と福音のアンチテーゼは有効である。
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義認は、もっぱら罪の赦しと関係しており、イエスの積極的[もしくは命令を伝える教訓的な]服従の転嫁とは無関係である。赦しは、最終的な義認に至る契約的誠実によって補完される。
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義認には、罪人である信者の罪と責任を十字架上のキリストに転嫁すること、及び、主の完全な義を信者に転嫁することが含まれている。クリスチャンの善行または契約への忠実さは、義認といかなる関係もない。
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服従を継続しない人は、バプテスマのときに受けた義認を帳消しにされ、その背教者は救いを失う。
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クリスチャンの義認はもっぱらキリストによってのみ達成されるので、けっして失われることはない。背教者は、最初から救いに至る信仰を持っていなかったのであり、義認されていなかったのである(1ヨハネ2・19、マタイ7・23)。
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忠実さを保ち続けるならば、聖化は最終的に義認に行きつく。義認に至るプロセスは共働的である。
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いったん義と認められたら、その瞬間に生涯続く聖化のプロセスが始まったのである。罪人の義認は、もっぱら神の側の働きである。
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恵みの契約には、条件が含まれる。一つの条件は、忠実な服従と善行である。信者の個人的な義や服従、または善行には、神の御前に救済的「価値」(つまり功徳)がある。
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恵みの契約には、一つの条件しかない。それは、信仰である。この信仰は賜物である。それは、手段であり、功徳ではない。それは、単にキリストの人格と御業を手に入れることしかしない。
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信仰と服従は同じものであり、われわれは堕落前のアダムと同じように栄光化された生命を受けるので、恵みの契約は、業の契約を水で薄めたものである(つまり、現在、部分的服従は、最終的に義認される上で必要である。)
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恵みの契約は、業の契約とまったく違う。なぜならば、第2のアダムであるキリストはわれわれの代わりに契約の諸規定を成就されたからだ。罪責と罪の力のもとにいる人々は、自らの義認を達成できないし、それに貢献することもできない。
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