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聖書と神道はどちらも贖罪宗教である |
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神道では、「罪」に対する代償として贖い物を差し出すという「祓い」が義務つけられている。 お祓いとは、実は、贖いである。 モーセ律法において、罪に対する解決は、犠牲の小羊をささげて罪を贖うことによって達成される。 この犠牲の小羊は、キリストによる十字架の贖いによって成就された。 聖書において、人間は、キリストの命という代価を払って贖われるべきものである。 同じように、神道でも、罪は代価を払うことによって帳消しになる。 いずれの教えにおいても、払いの儀式を行うが、非常に類似している。 お祓いでは、神主が榊を左右に振る。 (写真:毎日新聞社) ユダヤ人の仮庵の祭りでは、ナツメヤシの枝を左右に振る。[筆者:左右に振る枝をヒソプと書きましたが、ナツメヤシの枝の間違いでした。お詫び申し上げます。] (撮影:Yoshiko VanMeter氏) 「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」(詩編51・7) なぜ贖いが成就するかというと、ヒソプの枝は出エジプトの過ぎ越しの時に、イスラエル人の家の鴨居と門柱とに、小羊の血をその枝に付けて塗ったことから、贖罪の枝と呼ぶことができるからである。 (ヒソプの枝で鴨居と門柱に小羊の血を塗るユダヤ人) (榊を結び付けた鳥居) 実は、聖書も神道も「贖罪」宗教であり、根本教理において共通した部分を持っている。 やはり両者は同根と見るべきではないだろうか。 2012/12/07 |
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