聖書律法綱要
第一戒
第三節 神対モロク
カルヴァンは、著書『調和的に配列されたモーセの最後の4書の注解』において、律法を巧みに分類している。彼は、第一戒の中心聖句として、申命記18・9−22、13・1−4、レビ記18・21、19・26、31、申命記12・29−32を引用している。これらの箇所は、人間が未来を予知し、コントロールしようとする試みに関するものである。神は主であり、天地の創造者、万物の決定者なので、神と無関係に未来を知ろうとしたり、コントロールしようとすることは、主を軽んじ、他の神を立てることになる。
モーセは、あらゆる形の不法な未来予知を列挙した。
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行う者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主はそうすることを許されない。(申命記18・9−14)
また、あなたの子どもを1人でも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。(レビ記18・21)
あなたがたは血のついたままで何も食べてはあならない。まじないをしてはならない。卜占をしてはならない。(レビ記19・26)
あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記19・31)
あなたが、はいって行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から断ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえした。あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。(申命記12・29−32)
カルヴァンは、申命記18章9−14節について的を射た解説を行っている。
モーセは、他の神々を持つこと−つまり、神礼拝に冒涜的な事柄を混ぜ合わせること−がどのようなことを意味するのか、この箇所においてはっきりと説明している。というのも、その純粋さを維持するには、それからすべての不適合なものを排除するしかないからである。要するに、神の民は人間の手によるあらゆる作り事を遠ざけ、純粋かつ単純な宗教に不純物が紛れ込まないように注意すべきなのである。1
また他の注解者の解説も同じく的確である。
モーセは、あらゆる種類の予言を禁じるために、未来予知や、神の御心を発見するための様々な方法を表わすすべての言葉をひとまとめにした。そして、冒頭にモロク礼拝を禁止する言葉を置き、予言と偶像礼拝との間に存在する内的関係を表示した。というのも、フェブルエーション−モロク礼拝において行われた子どもたちを火の中をくぐらせる儀式−が、他のいかなる種類の偶像礼拝にもまして、予言や魔術と深い関係にあったからである。2
様々な風習が引用されている。「まじない師」とは、ささやく者、つまり蛇使い、呪術者とは、呪文やまじないを唱える者、口寄せとは、別の世界の秘密を知っていると主張する者、死人に伺いを立てる者とは、死者を呼び出して尋ねる者を指した、等々。3 しかし、最も中心的な悪は、モロク礼拝にあった。モロク(またはメレク、マリク)は「王」を意味し、異教徒の名前を誤って発音した結果できた言葉である。「王」の子音が残り、「恥」を表す言葉の母音が採用された。人身御供はこの神に対して捧げられた。この神は第一列王記11章7、33節においてアモンの神と呼ばれている。次の箇所にモロクについての言及がある。エレミヤ49・1、3、アモス1・15、ゼパニヤ1・5、レビ記18・21、20・2−5、第二列王記23・10、エレミヤ32・35、等。イスラエルにおいてモロク礼拝が行われていたのは、ヒノムの谷においてであった(エレミヤ32・35、第二列王記23・10)。モロク礼拝はアモンに限定されなかった。4
モロクは「王」または「王権」を意味する。モロクの名は、ミルコム(第一列王6・5、33)やマルカム(エレミヤ49・1、3、改訂訳ゼパニヤ1・5)としても登場する。モロクはバアル−「バアル」は「主」という意味です−の1面です(エレミヤ32・35)。バアルは、ツロの王メルカルトの名で礼拝されていた。ツロの礼拝では人身御供が行われた。5
モロクについてはあまりよく知られていなくても、神的王権の概念についてはよく知られている。神なる王や、王なる神−天と地の間において神と人とを結ぶ紐帯としての神−について知識のある人はたくさんいる。神=王は高位の座について人間の代理者として働きた。人間は[彼とともにそこに]昇った。そのような神への礼拝、つまり、そのような主(バアル)への礼拝において、天と地が「連続していること」が主張されている。それは、「万物は一つの存在であり、それゆえ、神とはその存在の階段を昇った人間にほかならない」とする信仰である。そのため、政治体制において権力の座につくということは、神の力を獲得し、それを占有したことを意味した。それは人間及びその民が勝利したことの証しであった。したがって、モロク礼拝は、政治的宗教であった。
モロクが王権と権力を象徴していたので、モロクへのいけにえの目的は、控えめに見ても、[権力から]刑罰を免除してもらったり、彼らの保証や保護を受けることにあった。また、究極において、それは権力を獲得することを目指していた。異教−とくにバアル礼拝−において、「高等な」いけにえは、人間のいけにえであった。自分の身体の一部を切断すること(とくに去勢)や、子どもや子孫をいけにえに捧げること、等が行われた。祭司は、去勢や、普通の人間関係からの隔離、異常行為を通じて、人間性から「離れ」た。この乖離の度合いが大きければ大きいほど、彼らは神によりいっそう近づくことができた。王は、絶対権力を示せば示すほど、神に近づくことができた。子どものいけにえは、モロクにとって最高の犠牲であった。モロク礼拝は、ソロモンが、彼の外国人(とくにアモン人)の妻のためにモロクの祭壇を建てたときに、イスラエルに入った。
明らかに、ソロモンは祭壇でのいけにえの種類を制限していた。それは、最初の人身御供が行われるまでに何世代も経っていたことから分かる。しかし、やはり、ソロモンの行為(第一列王記11・7−8)がそのような異教をイスラエルに持ち込んだのであった。
このように、モロク崇拝は国家崇拝である。国家は真にして究極の制度であり、宗教は国家の一部門にすぎなかった。国家は、人間に対して「完全な支配権」を要求した。そのため、それは「完全な犠牲」を要求することができた。T・ロバート・イングラムは、その卓越した法研究書(過去数世代においてほとんど唯一のすぐれた法研究書)の中で、第一戒が国家主義及び全体主義を禁止していることを正しく指摘している。「あらゆる権力を横取りし、他の誰に対しても頭を下げることのない政府」について語る中で、イングラムは次のように述べている。
そのような政府を表す現代の言葉は、「全体主義的政府」−つまり、全体的権力を横領する政府−である。サタンの究極の目標は、全体主義的世界政府を樹立することである。創造者について幾分の知識を持っている者は、神「だけ」が全体的権力をお持ちであることを知っている。万物の創造者が、そのお造りになったすべてのものよりも偉大であることは明らかである。フランケンシュタイン的怪物(人間によって作られ、人間を殺すが、人間によって殺されない生物)の存在を想定すること自体、理性が歪んでおり、それが偽りのイメージを生み出していることの証明である。それは、超自然的な悪の天才がいて、人々を欺き、次のような考えを吹き込んでいるからである。「たとえわれわれが何かを作ったとしても、われわれは所詮、ある得体の知れない力によって動かされている操り人形にすぎない」と。[しかし、]陶器師は粘土を使って何でもすることができるのだ。
明らかに、究極の主権を持つ、存在するものの内で最も偉大な力とは、存在するあらゆるものを存在せしめる力である。神お1人だけが、自らの存在を他のいかなるものにも依存されないお方であり、御自身の内に永遠の存在を持っておられるお方なのだ。万物に遍在する絶対権力の可能性を知るだけでも、われわれはそれが創造者の内に存在することを認めざるを得ない。絶対権力はこのお方の他に存在しようがないのだ。万物が創造されたこと(それゆえ創造者がおられること)を認めようとしない者はだれであれ、絶対権力が遍在するという事実をけっして考えようとしない。そのため、われわれは次のように言うことができる。クリスチャンにとっても、ノンクリスチャンにとっても、万物の創造者以外のいかなるものの内にも絶対権力を打ち立てる正当な方法は存在しない、と。神は別として、あらゆる権力は分割されており、それゆえ、制限されているのだ。6
現代国家のように、国家が完全な支配権を主張することは、神のようになろうとすることであり、人間と世界を管理する絶対支配者になろうとすることである。現代の反キリスト的国家は、制限された法と制限された支配権を求めるのではなく、ゆりかごから墓場まで、子宮wombから墓tombまで管理しようとしている。その支配は、福祉、教育、礼拝、家庭、仕事、農業、資本と労働、あらゆることに及んでいる。現代国家はモロクであり、モロク崇拝を要求している。それは人間を完全に支配することを求め、それゆえ、完全な犠牲を要求する。
しかし、礼拝についてイングラムが述べたように、「礼拝を受ける権力者だけが、その礼拝の方法を指示することができる」。7 同様に、究極の権力者だけが法源となる権利を持っている。神こそ唯一の真の、法の「源」であり、国家は法の「代理人」である。それも、数多くいる代理人(教会、学校、家庭、等)の内の1人に過ぎず、神の下で管理を行うために、特殊な、限られた領域の法を持つに過ぎない。モロク国家はそのような境界を否定する。それは、意のままに課税し、「強制収用」の形で身勝手な買収を行いる。自分の都合で若者を戦争に送り死に至らしめる権利があると主張する。
モロク国家は背信の産物である。民が王なる神を拒み、人間や国家を王とする時(第一サムエル8・7−9)、神はその結末はこうなると宣言される。
あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。自分のために彼らを千人隊の長、5十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者やろばを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群の十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない(第一サムエル記8・11−18)。
神を否定する国家の特徴がここでいくつか明らかにされている。国家は、第一、反聖書的な徴兵を実施する。第二、国家への奉仕のために多くの人々を強制労働に駆り立てる。第三、賦役は男性にも、女性にも、そして、動物にも課せられる。第四、財産−土地及び家畜−を没収する。第五、国家は神なる王のように振る舞う結果、神と同じく十分の一税を要求するようになる。つまり、人が得た利益の十分の一を税金として徴収する。第六、民が、自分の罪の値を支払う段になって泣き言を言っても、神は彼らに耳を傾けられない。
現代のモロク国家はこれらの条件をすべて満たしている。いや、それどころか、さらにひどい搾取を行っている。それは十分の一では満足せず、十分の三、十分の四も要求する。いくつかの国においては、信じられないほど高額の地方税を納めなければならない。それゆえ、「イタリアの1流の経済学者であり共和国の前大統領でもあった故ルイギ・エイナウディは、次のように述べた。『もし、法律に則ってすべての税金を完全に徴収したら、国は国民所得の110パーセントを徴収することになるだろう』と」。8
モロク国家は、「未来を決定し、世界の運命を決め、神のようになろうとする人間の究極的な試み」の象徴に過ぎない。これよりも劣る試み−占い、霊媒、魔術、魔法−も等しく神の忌みきらわれることである。これらすべては、神以外の条件によって−つまり、神から離れ、神を無視して−未来を決定しようとの試みを象徴している。それは、「世界は神によって支配されているのではなく、神との関わりを持たないむき出しの事実brute factualityから成っているので、人間は、直に[=神の意見を聞くことなく]その生の素材に向かうことによって世界と未来を支配できる」と主張することに等しい。このように、サウル王はすべての魔術を禁止することによって、表面的には神の律法に従う風をみせたが、危ない状態になると、彼はエンドルの巫女に伺いを立てた(第一サムエル28章)。サウルは神と共に立つ自分の位置を知っていた。つまり、自分が神に反逆し、頑なな心でいることを知っていた。また、律法と預言者サムエルによって裁かれることも承知していた(第一サムエル15・10−35)。生前、サムエルは、サウルに対して神の御旨を明示していた。サウルは、エンドルの巫女のもとに行き、死せるサムエルと交信しようとした。「サムエルは、今や神のいない、裸の事実から成る世界に接し、その事情に通じている。このような世界を知ることによって、神や律法に縛られない未来について分かるだろう」との信仰と期待とを抱いて。しかし、墓からの言葉は、ただ神の戒めの御言葉を強調しただけであった(第一サムエル28・15−19)。それは、裁きの御言葉であった。
占星術は、神の裁きを速やかに、しかも、確実に招く不法な調査の1種です(イザヤ47・10−14)。
レビ記19章26節には、血を食べることと、占いや予言の禁止が同じ文章の中に書かれている。デービスは聖書において血がどのような意味で用いられているかを示すために定義づけを行っている。彼の定義は、問題を簡潔に説明しているので、その全文を引用する価値がある。
血−−身体中を流れ巡っている生命ある液体。心臓から末端へ向かっては動脈(それは内部深くに置かれている)により、再び、外部浅く置かれた静脈を通って心臓に戻る仕組みになっている。いのちは血にある(レビ記17・1、14)。
血以外は生命ではないというわけではないが(詩篇104・30)。このように血は生命を象徴し、生命は神の御前に大変聖いものなので、「殺されたアベルの血は復讐を求めて地の下から神に向かって叫んでいる」という表現が可能なのだ(創世記4・10)。そして、洪水の直後に、(食用のための屠殺は認められたが)下等動物の血を食べることが禁じられた(創世記9・3、4、使徒15・20、29)。そして、「人の血を流す者は、人によって血を流される」(創世記9・6)との律法が定められた。罪の報酬は死であって、罪の赦しのためにはその代表となる身代わりの献身が必要とされた(ヘブル9・22)。モーセの律法においては、あらゆる罪のための捧げ物において動物の血が用いられた。狩りや食用に屠殺された動物の血は地に流され、地面を覆いた。これは、人間が消費してしまわないように神によって取り分けられ、もっぱら贖いの目的のために使用されるためであった(レビ記17・10−14、申命記12・15、16)。
イエスの血、キリストの血、イエス・キリストの血、小羊の血などは、彼の贖いの死を意味する比喩的な表現です(第一コリント10・16、エペソ2・13、ヘブル9・14、10・19、第一ペテロ1・2、19、第一ヨハネ1・7、黙示7・14、12・11)。9
生命は神によって与えられているので、また、神の御言葉によってのみ生かされているので、神の御言葉が許すのでない限りどのような人命も獣のいのちも奪われてはならない。それは国家によってであろうと、人間の食のためであろうと、自己防衛のためであろうと変わりはない。神の御許しなしに生命を支配しようとしたり、これを奪おうとすることは、神から離れて世界と未来とを支配しようとする行為に似ている。こういうわけで、レビ記19章26節では、血を食べること、占うこと、予言することなどは本質的に同罪として、同水準の罪とされている。
申命記18章13節には「あなたは、あなたの神、主に対して全き者(または正しい者−MTVでは「完全な心の者」、バークレー訳では「きずのない者」)でなければならない」と命じられている。これは、よく繰り返される戒め「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ記19・2、11・44、出エジプト記19・6、レビ記20・7、26、第一テサロニケ4・7、第一ペテロ1・15、16等)の一部である。「聖」となるとは、文字どおり「分けられること」である。
つまり、聖なる御用のために普通のものから離れることである。聖所のもろもろの器具も、奉仕する人々も、特に定められた日も、神の特別な奉仕(礼拝)のために分けられて、それによって「聖」とされた(出エジプト記20・8、30・31、31・10−11、民数記5・17、ゼカリヤ14・21)。聖別しないことから生ずる汚れは、儀式上のこともあれば身体上のこともあります(出エジプト記22・31、レビ記20・26)。
あるいは、精神上のことであったり道徳上のことであったりもします(第二コリント7・1、第一テサロニケ4・7、レビ記20・6、7、21・6)。神にとっての聖さとは、自らが創造された存在ではなく、創造する存在であり、この点において、すべての被造物と異なる別個の存在であり、知恵、力、義、善、真、栄光等において無限であるということにある。人間の側における真の「聖さ」とは、信仰と神の律法への服従によって、神に向いつつ[この世から]分離されることにある。こういうわけで律法は聖化の方法である。
モロク崇拝は、聖化を達成するための非有神論的・非聖書的な方法である。それは、人間性を超越するために案出された犠牲制度を用いて、自らに権力と栄光を付与し、他から分離した存在になることを求める。パウロは、偽りの聖さを得るためのこれらの方法のいくつかを挙げている。「結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です」(第一テモテ4・3−5)。
建物を献上し、清め、それに力を付与するために、人々を犠牲として捧げるということが社会的習慣としてかなり頻繁に行われてきた。ローソンは、ギリシャに長く残っている異教主義に関する論文(1909年)の中で次のように述べている。「・・・ザキントスの報告によれば、大切な橋や建物の土台に、犠牲として回教徒かユダヤ教徒を捧げるべきだとの強硬な意見が聞かれなくなったのは、わずか30年ほど前のことである。今でもなおベオティアのレバディア近くの水道橋には1人の黒人が監禁されていると伝えられている」。10 ストラックは、ユダヤ人の間に特殊な人種的血の儀式が存在するという説に反論する過程で、近代ヨーロッパにおいても迷信深い人身御供や動物犠牲が行われていたことを示す数多くの証拠が存在することに注意を喚起した。11
人間による世界支配や歴史の予定のもくろみは偽預言者を生み出す。これを制御する律法は次のように述べている。
あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。
あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない(申命記13・1−4)。
あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような1人の預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を2度と聞きたくない。またこの大きな火をもう見たくない。私は死にたくない。」と言った。それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような1人の預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じたことをみな、彼らに告げる。
わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」あなたが心の中で、「われわれは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られた言葉ではない。その預言者が不遜にもそれを語った。彼を恐れてはならない。・・・(申命記18・15−22)。
申命記13章には、偶像礼拝への勧誘について3つの型が記されている。第一、偽預言者による勧誘(1−5節)、第二、個人による私的勧誘(6−11節)、そして、第三、町による勧誘(12−18節)。12 どの場合も、刑罰は死刑である。情状酌量の余地はない。現代人の感覚からすれば、これは極端なことのように見える。なぜ偶像礼拝に対して死刑なのか。もし偶像礼拝が人間にとってそれほど重要なことでなければ、その刑罰は酷である。
しかし、現代人は、反国家、反人民、反革命の罪には死刑が当然だと思っている。なぜならば、これらの犯罪は現代人にとって重要だからである。この箇所において、個人が偶像礼拝をすることに対して死刑を下すべきであるとは述べられていない。死刑が下されるべきなのは、他の人々を偶像礼拝に誘って彼らの信仰を覆したり、社会秩序を破壊しようとする罪に対してである。
聖書律法の基礎は、唯一の真の神であり、それゆえ、最も基本的な罪とは、偶像礼拝を行って神に反逆することである。あらゆる法秩序には、反逆の概念が含まれている。法秩序にとって、その基礎に対する攻撃を大目に見ることは、自殺行為に等しい。死刑廃止を主張する国家であっても、概して、国家反逆罪に対しては死刑を留保している。法秩序の基礎は守らなければならない。
犯罪には「常に」刑罰が伴う。どの社会でも、最も重要な問題は「だれが罰せられるのか」である。聖書律法は、償いが行き渡るようにせよ、と命じている。ある人が百ドルを盗んだならば、彼はその百ドルにもう百ドルを加えて返さなければならない。つまり、犯罪者は罰せられる。ある犯罪において、償いは自分の生命である。現代のヒューマニズム社会では、犠牲者が罰せられている。償いがないため、犯罪は潜在的に利益のあがる仕事になっている。
その一方で、犠牲者は国家によって罰せられている。犠牲者は、3重の刑罰を受けている。つまり、犯罪被害によって、裁判費用の支払いによって、刑務所の費用を税金の形で支払うことによって。しかし、犯罪は常に刑罰を要求する。それも、犠牲者として事件に関わった個人と犯罪者として関わった個人を超える刑罰が課せられる。というのは、法秩序が侵されたからである。社会の平和と健全さが乱されたからである。自らに対して、また、法を守る市民に対して犯された罪を放置しておくような社会は、崩壊しつつある社会である。
社会が健全であるためには、まずなによりもその基礎がしっかりしていなければならない。基礎をいい加減にすれば、社会全体がひっくり返ってしまう。マルクス主義は反革命を許さない。君主政体は王を処刑しようとする企てを許さない。共和政体は共和国を転覆したり独裁制を樹立しようとする試みを許さない。それと同様に、聖書律法は偶像礼拝の宣伝を許さない。
申命記13章5−18節はけっして不信仰や異端に死刑を下すように命じているのではないことに注意していただきたい。この箇所は、しるしと奇跡を用いて、民を偶像礼拝に引き込もうとする偽預言者を告発している(6−11節)。また、他の宗教を作り、国家の法秩序を転覆しようとする町を非難している(13−18節)。人はこのような者たちを告発しなければならない。それは、神の裁きを回避するためです(17節)。
宣教師の活動地においてこのような告発は行うべきではない。なぜならば、宣教師は神に逆らう土地で活動しているからである。宣教地ではまず、回心者を得ることが先決である。これは、神の法制度を土台として成り立っている国家に命じられている。このような国家は、存立基盤を脅かす反逆行為を処罰し、それによって、秩序を維持しなければならない。試みを受けない社会は存在しない。神はこれらの試練によって人々を試し、彼らが神の命令によって立つかどうかご覧になる(3節)。
偽預言者(つまり、偽仲介者)について述べてから、律法は、ただ1人の真の仲介者に目を向ける。
あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない(申命記18・15)。
この預言者の人格と御業については、15−19節に述べられている。人々は彼に従わなければならない。もし従わなければ、神が従うことをお求めにまります(19節)。ウォーラーは、この預言者について、卓越した解説を行っている。
これらの節と前節との関係は、イザヤの質問によってはっきりとします(8・19)。「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか」。つまり、復活の朝に、御使いが次のように語ったのと同様である。「なぜ生きているお方を死人の中に探すのか」。13
続く
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