割礼を教義的に理解するためには、次の2つの事実が重要である。第一、割礼はイサクが生まれる前に制定されたこと。第二、それとともに与えられた啓示においては、大きな繁栄を与えられるとの第二の約束しか言及されていないこと。これら2つの事実から、割礼が繁殖のプロセスと関係していることが分かる。だからといって、[生殖]行為自体が罪深いという意味ではない。旧約聖書には、そのようなことを示唆する箇所はまったくない。汚れているのは、行為ではなく、結果−−つまり、「人間の性質」−−である。これこそ、聖められなければならないものであり、正当な資格を与えられる必要がある。レビ記12章3節において、割礼は8日目に行うように命じられている。ヘブライ人であれ外国人であれ、過越の祭りに参加することを願う者は皆割礼を受けなければならなかった(出エジプト記12・48−49)。パウロは割礼を受けた(ピリピ3・5)。同じように、イエスもバプテスマのヨハネも割礼を受けた(ルカ1・59、221)。パウロは、ユダヤ人の母とギリシャ人の父を持つテモテに割礼を受けさせた(使徒16・3)。しかし、テトスには求めなかった(ガラテヤ2・3)。
それゆえ、割礼は(異教徒たちのように)大人に対してではなく、生後8日目の幼児に対して施される。人間の性質は、その根源において汚れており、それゆえ彼はその本質において失格者なのである。罪は個人の問題であるだけではなく、種族の問題ともなる。
資格の回復の必要性は、とくに旧約聖書において強調されなければならなかった。当時、神の約束は、時間的・自然的事物と密接に関っていた。このため、「肉の子孫として生まれてくる者たちは神の恵みを受ける資格がある」と誤解される危険が生じた。割礼は、「アブラハムの肉における子孫であるからといって、真のイスラエルになれるとは限らない」ということを示している。性質は聖められ、資格を付与されねばならない。教義学的言葉を使って言えば、割礼は義認と再生と聖化を象徴している(ローマ4・9−12、コロサイ2・11−13)。2
あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない(申命記10・16)。同じ様な表現が、レビ記26・41、エレミヤ4・4、6・10、ローマ2・28−29、コロサイ2・11等にも見受けられる。
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたがこころを尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる(申命記30・6)。
とくにここの箇所で「汚れた」は、訳語として不適切である。というのは、この語にはどうしても否認や嫌悪の感情が伴うからである。また、「肉体には本質的に悪が備わっている」というマニ教の教えをも想起させるからである。この文は次のように言い換えることができるだろう。「ある女性が息子を生んだ時には、その女性を1週間隔離すべきである。これは、自然の感情が命じるところである。その後、子どもは割礼を受け、同時に彼女は1か月家にこもる。最初に外出するのは、教会詣の時とすべきである」。4マニ教に関する意見には見るべきものがある。しかし、「自然の感情」とは生ぬるい。ここではそれ以上のものが危機に晒されている。堕落した人間の肉体も霊魂もどちらも神の御前では汚れている。物質に希望を持てないと同様に霊魂にも希望を持つことはできない割礼は「人間の希望は、誕生の内にではなく、再生の内にある」という事実を証言している。女性の聖めの儀式も同様である。
血は、生命が暴力的な方法によって奪われたことの目に見えるしるしである。それは生命の授与やその剥奪−死−を象徴している。このような生命の授与と奪取はこの世界において、究極の贈り物(または代価)であると同時に究極の犯罪(または刑罰)でもある。人間はこれ以上のものを知らない。過越の祭りは、イスラエルの贖いを祝いた。それは、ちょうど聖餐式がイエス・キリストの血によって神の真の教会の贖いを祝うのと同じである。礼典の祝いは、贖い・罪の清め・契約的生活の祝福を信仰によって−−つまり、キリストの贖いの犠牲を通して、キリストのうちに−−受け入れることを意味する。
したがって、第一に、人間が与えることのできる最大の捧げ物や奉仕は、自分の血すなわち生命である。「人がその友のために生命を捨てるという、これほど大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。第二、この世で最も大きな罪(や悪)は血(つまり生命)を奪うこと−故殺もしくは謀殺−である。第三、大きな刑罰(もしくは損失)とは、自分の血を流すこと、つまり、生命を失うことである。それゆえ、血を流すものについて「血を流す者は人によって血を流される」と言われている。
また、パウロは行政官について次のように言っている。「・・・彼はいたずらに剣を帯びてはいない。それは、彼が神の僕だからである。神は悪を行う人には怒りをもって報いる」(ローマ13・4、改訂訳)。「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6・23)。
第四、唯一可能な(または十分な)償いや贖いは、生命には生命、死には死である。このような償いを人はなすことができない(参照・詩篇49・7−8、、マルコ8・36−37)。それは、彼自身の生命は自分の罪のためにすでに没収の対象となっているからであり、そればかりか、あらゆる生命は神のものだからである(参照・詩篇50・9−10)。
それゆえ、人間は差し出すための「血」を持っていない。このような、必要ではあるが、他のいかなる方法をもってしても得られぬ賜物を、神は与え給うた。神は贖いを成し遂げるための血を賜った(レビ記17・11)。それゆえ、贖いは神の下賜による以外はまったく不可能である。もしくは、P・T・フォーサイスが述べたように、「犠牲は恵みの実であって、恵みの根ではない」。
さらに、主が「多くの人のために身代金として生命を与えるために」(マルコ10・45)来たと言われた時に、彼は、御自身の無罪性と神性を暗示された。また、動物犠牲の流血が象徴したところのことを成就すると、述べ給うた。ここで、受肉せる子なる神イエスとして、神御自身が来られ、人間となって、唯一贖いをなすことができる血を与えてくださった。それゆえ、神の教会は神御自身の血によって買い取られた(使徒20・28)。
流された「血」の4つの意義は、すべてキリストの十字架において成就した。われわれの肉と血をまとわれた人の子は、われわれ人間のために、また、われわれの救いのために、最も偉大な捧げ物を成し遂げてくださった。彼は御自身の生命を差し出された(参照・ヨハネ10・17−18)。
第二、彼は人間の犯した最大の罪の犠牲となられた。彼は、堕落した不正なやり方で殺害された。第三、「彼は罪人とみなされ」(ルカ22・37、改訂訳イザヤ53・12)、悪者たちの手による究極の刑罰を堪え忍ばれた。彼は、律法の専門家やローマの行政官の手によって殺害された。人間によって彼の血は流された。
第四、彼(神が肉体を作られた)は贖いをなすためにその人間の血をお与えになった(これは彼だけがなすことのできるわざである)。それゆえ今、悔い改めと罪の赦しは彼の御名によってのべ伝えられている。われわれは彼の御血によって義と認められる。5
さらに、旧約聖書の基本的信念は「物質的な生命は神の創造である」ということにある。それゆえ、物質的生命は神に属するのであって、人間に属するのではない。また、とくに、神の似姿として造られた人間の場合、この生命は神の目に尊い。それゆえ、だれも、血を流したり生命を奪ったりする自律的権利を持っていないし、もしだれかがそのようなことを行えば、彼はその行為の責任を神に対して負うことになる。他の神々をいっさい持たないということは、神の律法以外のいかなる法も持たず、神の御言葉を離れた活動や思想をいっさい行ったり信じたりしないことを意味する。食べ物を得るためであれ、市民法を維持するためであれ、戦争や自己防衛においてであれ、血を流すには、神の御言葉の許しがなければならない。
殺人者は血の責任を人間の前でだけではなく、まず何よりも神の御前で負っている。その場合、神が当然下され、他の人々が責任を持って下さなければならない刑罰は、殺人者自身の生命を取り去るということであった。そのような人は、神がお与えになった生命の賜物をさらに楽しむ価値がない。
彼は地上における最も厳しい刑罰を受けなければならない。つまり、自分の肉体の生命を失う。さらに、「血」という言葉が使用されることによって、刑罰の性質が的確に示されている。「だれでも人の血を流す者は、人によって血を流される」(創世記9・5−6)。6
主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」(出エジプト記13・1、2)ここにおいて贖いはきわめて物質的問題である。贖いは物質的世界や霊的世界と分けて扱われることはないからである。イスラエルは罪の奴隷であっただけではなく、肉体的にもエジプトの奴隷であった。人間は堕落の結果、その体も魂も奴隷のくびきに繋がれてしまった。それゆえ、贖いは全的であり、人間の1側面にとどまらずその全体に影響を与える。
主が、あなたとあなたの先祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに賜るとき、すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。後になってあなたの子があなたに尋ねて、「これは、どういうことですか。」と言うときは、彼に言いなさい。「主は力強い御手によって、われわれを奴隷の家、エジプトから連れ出された。
パロがわれわれを、なかなか行かせなかったとき、主はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された。それで、私ははじめに生まれる雄をみな、いけにえとして、主にささげ、私の子どもたちの初子をみな、私は贖うのだ。」これを手の上のしるしとし、また、あなたの額の上の記章としなさい。それは主が力強い御手によって、われわれをエジプトから連れ出されたからである。(出エジプト記13・11−16)
あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を、遅らせてはならない。あなたの息子のうち初子は、わたしにささげなければならない。あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。7日間、その母親のそばに置き、8日目にわたしに、ささげなければならない。(出エジプト記22・29−30)
最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。(出エジプト記34・19−20)
しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのだから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。(レビ記27・26)
あなたの牛の群や羊の群に生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。(申命記15・19−20)
初物が聖ければ、粉の全部が聖い。根が聖ければ、枝も聖い。(ローマ11・16)
神は3つの行動を取られた。つまり、エジプトの人と家畜の初子を殺されたこと、過越の犠牲によってイスラエル人には裁きを免除されたこと、最後に、免除の記念として、これから生まれてくるすべての初子を主に捧げるよう命じられたこと。全体の進行において土台となっている要素は、明らかに、初子が代表的性質を帯びているという点にある。親から生まれた最初の子どもは胎の実の全体を代表している。贖罪の行為はこのように、契約の成員であることを「確認」するための儀式であった。全イスラエルは、人も獣も、神の御恵みと養子縁組によって、神の所有、神の「初子」と見なされた。イスラエルは、エジプトと同様に死に価する存在であり、この贖いは、一方的な恵みによる行為であった。この事実は、神がアブラハムに対して、イサクを犠牲として捧げることをお求めになったときに、彼に啓示された。
つまり、そこからすべてが始まる出発点なのである。したがって、エジプトの初子が殺されたことは、実際、全体が殺されたことに等しい。また、それは、[イスラエルの初子だけではなく、イスラエルの全体が救われたこと、つまり、エジプトに下ったのと]同じ運命が[イスラエル]全体には下らなかったこと意味している。
したがって、イスラエルの初子が救われ、それに続いて彼らが主に対して聖別されたことは、神の御意思と有効な徳によって、全員が救われ、聖別されたことを意味した。それゆえ、イスラエルは全体として、神の初子として選ばれた。「そのとき、あなたはパロに言わなければならない。
主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」(出エジプト記4・22−23)
(22)真心から十分の一を捧げなければならない。−タルムードとユダヤの注釈者たちは、一般に、次の意見において一致している。すなわち、この箇所(ここと28節)で述べられている十分の一、及び、216・12−15において規定されている十分の一はみな同じもの−つまり、「第二の十分の一」−を指すこと。また、それは、民数記18・21において彼らの身代わりとしてレビ人に与えられ、彼らによってさらにその十分の一が祭司に与えられた通常の十分の一とは完全に異なるものであったこと(民数記18・26)。・・・初子を贖うことの他に、20歳以上のすべての男子に人頭税が課せられた(出エジプト30・11−16)。これはもともと幕屋の建設のために使用された(出エジプト30・25−28)。レビ人をはじめ全員がそれを納めた。これは、「すべての人はただ神の恵みによって生かされている」ということを思い出させるための記念であった。
(23)あなたの神、主の御前で食べなければならない。−つまり、第二の十分の一を食べなければならないのだ。これは、2年間行われなければならなかった。しかし、3年目と6年目には異なる取り決めがあった(28節を参照)。7年目は安息年だったが、その年は収穫がないので、十分の一の捧げ物はなかったと思われる。地から得られる利益は全員のためのものであり、すべての人が思いのままに食べてもよかった。
(28)3年目の終わりにはすべて十分の一を携えてこなければならない。−ユダヤ人マーサー・アニ(Ma'aser 'Ani)はこれを「貧者の十分の一税」と呼んだ。彼らは、それを第二の十分の一税と同一物とみなしている。第二の十分の一税は、通常、エルサレムにおいて所有者たちが食したが、3年目及び6年目には貧者に与えられた。10
注意すべきなのは、この第二の十分の一税は厳密に言って十分の一ではなかったということである。第二の十分の一が特定の家畜の中から取り分けられたわけではなかった。「初子が、動物の第二の十分の一税の代わりを務める」のだ。11
神がイスラエルに課し給うた制度の下で、3つの有益な目的が達成された。1、所有者が利益を得た。過酷な収穫による農地の疲弊から免れただけではなく、未来を予測し、用意するという習慣を身につけることができた。彼は、第七年目のために蓄えをしておく必要があったので、自らの必要を計算し、穀物を蓄え、未来に備えて手元に備えを残しておくことを学んだ。このようにして、理性や思慮深さが養われ、彼は単なる労働力から思慮深い耕作者へと進歩した。筆者は、一つの点においてローリンソンと意見を異にする。畑やぶどう畑を安息の定めにしたがって利用することは、明らかに落ち穂拾いに似ていた。つまり、所有者は、拾うのに値する貧困者が畑に入るのを管理した。農業に関する安息日の規定については、後ほどさらにふれることにする。
2、貧者が利益を得た。第七年目に生えてきた作物は何であれ自生したものであり、所有者の側ではいっさい支出も配慮も必要なかったので、それらは所有者だけに属するものであるとは見なされなかった。モーセ律法はそれを通常の野生の果物と同列に置き、最初にやってきた者に与えている(レビ35・5−6)。この規定によって、貧困者たちは利益を受けることができた。というのは、彼らこそ自然の恵みの蓄えを収穫できた人々だからであった。パレスチナの乾燥した気候において、多くの穀物は収穫期の間に納屋に納めたはずなので、自生の作物はかなりの量にのぼったであっただろう。そして、これ以外に収入の道がない者たちを支えるには十分な量だったと思われる。
3、獣たちが利益を受けた。神は「家畜を気に懸けておられる。」神が安息年を定められたのは、一つに、「野の獣たちが」十分な餌にありつくことができるためであった。人々が自分の食べ物を分け与える時に、割り当てが少ないということはよくあることである。神は、少なくとも7年に1年は、彼らに腹1杯食べさせた。26
一般に、神の恵みは、我々の側のあらゆる直接的服従の後にやってくることを我々は知っている。もし我々が神の律法の最も小さな戒めでさえもそれを探し出して実行するならば、また、もし我々が神の御口から出た御言葉は一つたりとも地に落ちることがないということを示すならば、我々は自分自身に対しても、また、人々に対しても、「彼が我らの神であり王であると我々が認めている」ことを、言葉ではなく行いを通して証言している。神は、速やかに我々を御自身の下僕・神の助けと守りを求める者と認めてくださることであろう。28また、サムエル・チャドウィック(1860−1912年)は「神から盗む者はだれでも、自らの魂を飢えさせる。」29 と述べた。